知人の災難や「知識」に関連する偏った感慨

都筑道夫の短編集『袋小路』(徳間文庫刊、1993年)に「悪役俳優」という作品が収録されている。
ネタを割ることになるのでどういう話かは説明しないが、主人公は以下のような人物だ。

 雨宮雄一郎は、敗戦後まもなく、芸能雑誌の記者になって、映画の記事を書きはじめ、やがて映画評論家として、独立した。ひところは、テレビ映画の時間の解説もやって、顔も売ったけれど、五十代に入って、長患いをして、仕事をへらさざるをえなかった。還暦をすぎたいまでも、月に一、二本は映画を見て、エッセーは書いているが、現役の批評家とはいえないだろう。当人はそのつもりでも、まわりが認めなくなっている。
 試写会へいっても、昔からの顔なじみはへるいっぽうで、若い男女ばかりが目立つ。はじめのころは挨拶をされて、いくたりかは名をおぼえたが、その連中の書くものを読むと、ほとんどが、映画の現在しか知らない。縦の流れ、横のつながり、歴史的な視野がない。ヴィデオが普及してから、
「これからの批評家はたいへんだ」
 と雄一郎は書いた。
ダグラス・フェアバンクスまでが、ヴィデオになって、生れる前の映画だから、見ていません、と若いひともいえなくなった」
 それが読まれたからではなかろうが、いまでは誰も挨拶をしなくなった。そんなことは、さほど気にならないけれど、試写の帰りにお茶でも飲みながら、話をする相手がいない。それは淋しいことだった。
(「悪役俳優」、『袋小路』、都筑道夫、徳間文庫刊、1993年、83〜84P)

作中、この雨宮という人物が都筑作品によく登場する作者をモデルにした人物のひとり「紬志津夫」と映画についての薀蓄を傾け合うシーンが描かれる。

「やはり、シェエリダン・クラヴの? ああ、思い出した。そういえば、似ていますね。若いのが意地になって、ボスを追いまわすところ。シェリダン・クラヴのボスも、すさまじかった。あのころはちょうど、リチャード・ウィドマークとかダン・デュリエとか、新しい悪役が出たときだから、負けていられないって気が、あったのかも知れませんね、クラヴには」
「たしかに熱演でしたね」
「近ごろのルドガー・ハウアーなんかは、リチャード・ウィドマーク売出しのころを思わせるけど、もひとつおまけが、ついていないでしょう」
「おまけ?」
「ええ、ウィドマークでいえば、あのいやな笑いかた」
「ああ、ハイエナ・ラーフィングね」
「わざとらしいといえば、わざとらしいが、ああいうおまけは、うれしかった。ダン・デュリエなんかも、カンカン帽をうまくつかっていたし……」
「ウィドマークは、インヘラーをつかっていましたね。鼻にあてがって、薄荷を吸い込む小さな筒」
「ぼくはあれを探しに、横浜までいきましたよ。東京の薬局じゃあ、まだ輸入していなかったんで−−けっきょく横須賀で、見つけたんだったかな。得意になって、つかっていたら、友だちが笑ってね。薄荷パイプとおんなじじゃないか、というんです。憤慨したけれど、考えてみれば、もっともでね」
「悪役を小道具で印象づけるのが、当時、はやっていたんですな。ヨーヨーとか、剣玉とか−−ジョージ・ラフトのコイン投げが、最初なんでしょうけど」
「そういえば、『殺られる』ってフィルム・ノワールに、シャンソン歌手のフィリップ・クレイが、殺し屋の役ででて、チューインガムをつかったでしょう」
「ガムをひきのばして、いきなり相手の目に貼りつけてから殺すんでしたね」
「あれ、ひょっとすると、シェリダン・クラヴの真似じゃありませんか」
「そうかも知れない。いや、きっと『明日を待つ男』のクラヴがヒントになっていますね。フィルム・ノワールは、アメリカのギャング映画から、ずいぶん影響をうけていますから」
「テレビでこのあいだ、フランス製のドキュメントをやっていましてね。それにフィリップ・クレイが、解説で顔をだしていた。ごま塩の顎ひげをはやして、すっかり老けていましたよ。シェリダン・クラヴのこと気になりますね。きのうの映画、まだ試写をやるでしょう。もう一度、見てみませんか、雨宮さん。ぼく、宣伝部に電話して、そちらにお知らせします。御一緒しましょう」
「そりゃあ、ありがたい。お待ちしていますよ、紬さん」
 こういう話がしたかったのだ、と思いながら、雄一郎は電話を切った。
(「悪役俳優」、『袋小路』、都筑道夫、徳間文庫刊、1993年、92〜94P)

「相手がわかってくれるかどうかわからない」トリヴィアルな知識の披瀝は本来物悲しいものだ。誰にも理解されない淋しさを前提にするからこそ「わかる」相手に巡りあったときに「こういう話がしたかったのだ」という喜びが生じる。
価値のことは知らないが、知識は共有できたときにこそ意味がある。
その理解や共有があたかも生得の権利であるかのように振舞う傲慢さがオレは嫌いだ。
だが、そんな事をいっても特に意味はないのだし、その嫌悪感すら折り込み済みにしてただ「残念でならなかった」とつぶやいて通り過ぎていく。私は都筑の怪奇小説は理が克ちすぎていてあまりおもしろいと思ったことはないのだが、この短編のそういうたたずまいには心を打たれた。
けっきょくディレッタントの持つべきプライドなどそういうものでしかあり得ないのではないか。