幼年期の終わり

このNewsramaのシリーズ記事ではBen Dunnのスーパーヒーローコミックスとマンガの融合に向けた(不毛な気もする)情熱がよくわかる「The Changing US Manga Scene: Remembering When West Has Met East」なんかも相当おもしろいが、やはり結論にあたる「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」がもっとも面白い。このテキストではViz、Tokyopopなどの現場を渡り歩いてきた編集者Jake Forbes、『Manga: The Complete Guide』の著者でアメリカ版ジャンプの編集者でもあったJason Thompson、コミックアーティストのBecky Cloonanのコメントから成り立っているのだが、特にJake Forbesのコメントがおもしろい。

彼によればマンガ出版の最初の波−プレトーキョーポップ期−はほとんどがボランティアベースのものだった。「コネと強い意志を持った一握りのひとたちがライセンスを取得して、その存在すら知らない大部分のアメリカのコミックスファンにマンガの魅力を伝えようとして懸命に働いた、ただその過程で金持ちになった人間がいないわけじゃない(トーレン・スミス、君のヨットから僕に反論するのは君の自由だ)。次の波は企業家と消費者によって成り立っていた。強気なアメリカンオポチュニズムに支えられてマーケットは拡大し、ある日マンガはシリアスなビジネスになった。パブリッシャーはもはやマンガの世話役ではなくなりコンテンツの供給元になった」
「僕はライセンスベースの出版がビッグビジネスになる時代は終わったと思う」彼はそう言葉を続ける。「ダークホースやヴァーティカルのような本当の意味で「本」について考えてビジネスをしている企業は常にオタク層以外の「外部」に向けてアピールすることのできる評価の高い高品質なマンガタイトルをカタログに揃えている。それに日本には十分な数のスモールパブリッシャーがある、海外のニッチテイストが味わいたければ小さな出版社と組めばいい。でも、マスマーケット向けの商品は別だ。日本の出版社は中間業者を必要としていない。Vizはそのいい例であり、例外でもある。彼らは版権の認可もおこなっているからだ。全体の中での彼らの占める割合はあまりにも大きく、それでいてその所有権は彼らのコンテンツの供給元である日本の二大マンガ出版社、集英社小学館が握っている(彼らはVizについてはそれぞれ同等の経営権を持つが、日本では依然として競争相手でもある)」
(「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」、Benjamin Ong Pang Kean、『Newsrama』、http://www.newsarama.com/comics/080718-MangaFuture.html、21 July 2008)

フォーブスは「MANGA」をある種の文化的なムーブメントとして捉えているらしく、Tokyopopの試みを「ライセンスの外側に日本のポップカルチャーをモデルにした新しいポップを築こうとする挑戦」だったと主張したりしているのだが、そういう日本人が喜びそうな「ジャパニーズクール」的な発想の是非(将来的にはともかく現状は失敗してるわけだし)はともかく、ここで重要なのは「日本の出版社は中間業者を必要としていない」という認識だろう。ジャンプの現場にいるトンプソンはもっと露骨にいまのアメリカのマンガ市場の状況を「Vizとそれ以外」とまったく簡潔にまとめているが、日本人にとって重要なのはアメリカでのアニメやマンガのブームによって結果的にアメリカのエンターテインメント産業の一角に日本企業がライセンサーとして食い込めた、という結果のみだろう。
アメリカでも日本国内でもアニメやマンガについては奇妙なほどメディア論やビジネス的な側面と文化(運動)的な側面が混同して語られるが(例えばオタクや萌え、やおいといった言葉にまつわる議論)、本来これははっきり分けて考えられるべきものである。
その辺の混乱をクルーナンは「言葉遊び」だと切って捨て「もし私がBD(フレンチコミックス)を書いたとして、いちいちそれを「OELBD」とか「OGBD」とか呼ぶわけ?」とはなはだもっともなことをいっている。
現在のアメリカにおける「MANGA」という言葉は「日本のマンガ」という本来の意味を離れ、絵のスタイルやそれを拡大してジャンル扱いまでされておりひどく混乱した状況にあるのだが、その辺も含めてアメリカ人の混乱にわざわざ日本人がつきあう必要はないわけで私たちはこの問題に対してはもっとビジネスライクであるべきだろうと思う。
そして、その意味で私はアメリカでの「クリティカルな「評価」」についてはもっとちゃんと考えられたほうがよいと思っている。アメリカにおけるアート的、文芸的な(あるいはグラフィックノベルとしての)「評価」は当然日本におけるそれとは異なっている。コミックストリップからの伝統の延長線上で現在のグラフィックノベルの「純文学的」な評価は成り立っており、辰巳や林、手塚への評価もそういう流れのなかでなされている。相手の評価基準がわからなければ、なにが評価されているのかも理解できないし、そのような評価と『Naruto』のようなポップなプロパティーのビジネス的な成功を混同するのはバカげている。
今後、海外のマンガやアニメの受容からさまざまな新しい表現、ハイブリッドな表現が生れてくる可能性があるのは確かであり、クリエイターはそこに夢を見るべきだとも思う。
ただ、ジャーナリストや批評家や研究者は夢と現実を混同すべきではない、課せられた役割が違うはずなのだから。