Wired Vision連載

「キャラクターのランドスケープ
http://wiredvision.jp/blog/odagiri/200811/200811051200.html
というのをはじめました。すでに1回目公開されてます。
「月2回くらい更新しようかなあ」という予定。

ここは基本的に更新しない場所なので多少客寄せになるエントリいくつかあげてからはてなに出そうと思い、そのためのネタに苦しむという倒錯したことをやってたら(w
仲俣さん
http://d.hatena.ne.jp/solar/20081108#p1
田中先生
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20081108#p2
のおふたりに紹介されてしまった(w
おふたりともありがとうございます。

幼年期の終わり

このNewsramaのシリーズ記事ではBen Dunnのスーパーヒーローコミックスとマンガの融合に向けた(不毛な気もする)情熱がよくわかる「The Changing US Manga Scene: Remembering When West Has Met East」なんかも相当おもしろいが、やはり結論にあたる「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」がもっとも面白い。このテキストではViz、Tokyopopなどの現場を渡り歩いてきた編集者Jake Forbes、『Manga: The Complete Guide』の著者でアメリカ版ジャンプの編集者でもあったJason Thompson、コミックアーティストのBecky Cloonanのコメントから成り立っているのだが、特にJake Forbesのコメントがおもしろい。

彼によればマンガ出版の最初の波−プレトーキョーポップ期−はほとんどがボランティアベースのものだった。「コネと強い意志を持った一握りのひとたちがライセンスを取得して、その存在すら知らない大部分のアメリカのコミックスファンにマンガの魅力を伝えようとして懸命に働いた、ただその過程で金持ちになった人間がいないわけじゃない(トーレン・スミス、君のヨットから僕に反論するのは君の自由だ)。次の波は企業家と消費者によって成り立っていた。強気なアメリカンオポチュニズムに支えられてマーケットは拡大し、ある日マンガはシリアスなビジネスになった。パブリッシャーはもはやマンガの世話役ではなくなりコンテンツの供給元になった」
「僕はライセンスベースの出版がビッグビジネスになる時代は終わったと思う」彼はそう言葉を続ける。「ダークホースやヴァーティカルのような本当の意味で「本」について考えてビジネスをしている企業は常にオタク層以外の「外部」に向けてアピールすることのできる評価の高い高品質なマンガタイトルをカタログに揃えている。それに日本には十分な数のスモールパブリッシャーがある、海外のニッチテイストが味わいたければ小さな出版社と組めばいい。でも、マスマーケット向けの商品は別だ。日本の出版社は中間業者を必要としていない。Vizはそのいい例であり、例外でもある。彼らは版権の認可もおこなっているからだ。全体の中での彼らの占める割合はあまりにも大きく、それでいてその所有権は彼らのコンテンツの供給元である日本の二大マンガ出版社、集英社小学館が握っている(彼らはVizについてはそれぞれ同等の経営権を持つが、日本では依然として競争相手でもある)」
(「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」、Benjamin Ong Pang Kean、『Newsrama』、http://www.newsarama.com/comics/080718-MangaFuture.html、21 July 2008)

フォーブスは「MANGA」をある種の文化的なムーブメントとして捉えているらしく、Tokyopopの試みを「ライセンスの外側に日本のポップカルチャーをモデルにした新しいポップを築こうとする挑戦」だったと主張したりしているのだが、そういう日本人が喜びそうな「ジャパニーズクール」的な発想の是非(将来的にはともかく現状は失敗してるわけだし)はともかく、ここで重要なのは「日本の出版社は中間業者を必要としていない」という認識だろう。ジャンプの現場にいるトンプソンはもっと露骨にいまのアメリカのマンガ市場の状況を「Vizとそれ以外」とまったく簡潔にまとめているが、日本人にとって重要なのはアメリカでのアニメやマンガのブームによって結果的にアメリカのエンターテインメント産業の一角に日本企業がライセンサーとして食い込めた、という結果のみだろう。
アメリカでも日本国内でもアニメやマンガについては奇妙なほどメディア論やビジネス的な側面と文化(運動)的な側面が混同して語られるが(例えばオタクや萌え、やおいといった言葉にまつわる議論)、本来これははっきり分けて考えられるべきものである。
その辺の混乱をクルーナンは「言葉遊び」だと切って捨て「もし私がBD(フレンチコミックス)を書いたとして、いちいちそれを「OELBD」とか「OGBD」とか呼ぶわけ?」とはなはだもっともなことをいっている。
現在のアメリカにおける「MANGA」という言葉は「日本のマンガ」という本来の意味を離れ、絵のスタイルやそれを拡大してジャンル扱いまでされておりひどく混乱した状況にあるのだが、その辺も含めてアメリカ人の混乱にわざわざ日本人がつきあう必要はないわけで私たちはこの問題に対してはもっとビジネスライクであるべきだろうと思う。
そして、その意味で私はアメリカでの「クリティカルな「評価」」についてはもっとちゃんと考えられたほうがよいと思っている。アメリカにおけるアート的、文芸的な(あるいはグラフィックノベルとしての)「評価」は当然日本におけるそれとは異なっている。コミックストリップからの伝統の延長線上で現在のグラフィックノベルの「純文学的」な評価は成り立っており、辰巳や林、手塚への評価もそういう流れのなかでなされている。相手の評価基準がわからなければ、なにが評価されているのかも理解できないし、そのような評価と『Naruto』のようなポップなプロパティーのビジネス的な成功を混同するのはバカげている。
今後、海外のマンガやアニメの受容からさまざまな新しい表現、ハイブリッドな表現が生れてくる可能性があるのは確かであり、クリエイターはそこに夢を見るべきだとも思う。
ただ、ジャーナリストや批評家や研究者は夢と現実を混同すべきではない、課せられた役割が違うはずなのだから。

講談社USAの影響

こうした「MANGA」を巡る環境の変化を講談社USAの立ち上げにあわせてまとめたBenjamin Ong Pang Keanによるシリーズ記事がアメリカの大手コミックスニュースサイトNewsaramaに出ている。
「The Kodansha Fallout: More Manga Changes?」
「The Kodansha Fallout II: The Manga Landscape」
「The Changing US Manga Scene: Where Does Viz Stand?」
「The Changing US Manga Scene: Remembering When West Has Met East」
「The Changing Manga Scene - What Does the Future Hold?」
コメントでツッコミが入ったりもしていて(w 多少不備な部分はあるが(逆にいえばそういう部分もコメント欄のツッコミまでちゃんと読めばOK)、この一連の記事はアメリカにおけるマンガ出版の歴史や経緯を振り返るにはコンパクトで大変便利なものだ。
この記事やAnime News NetworkForumでの反応を見る限りでは、いまのところアメリカのアニメ・マンガファンのあいだでも「講談社USAの誕生を諸手をあげて祝福する」という雰囲気には程遠いことがうかがえる。
いちばん現地のファンの不安を煽っているのは「現状アメリカのパブリッシャーから出版されているタイトル群の版権が引き上げられるのではないか?」というもので、これに関してはDel Reyからは「引き上げはない」旨のアナウンスが出された一方、『無限の住人』、『アキラ』、『甲殻機動隊』などの作品の版元であるDark HorseのCarl HornはAnime Expoの会場での談話で「噂の存在は承知しているが、契約の問題があるためどのタイトルがそれにあたるかは話せない」と事実上ライセンスの引き上げがあることを認め、『セイラームーン』、『12国記』、『Beck』などのパブリッシャーであるTokyopopNewsaramaの記事では「まだわかりません」みたいなことをいっているが、じつはこちらは現在事実上出版ラインが壊滅しておりコミックス出版から手を引くことがほぼ確実である。積極的に推し進めてきたOEL(Original English Language)マンガに関しても理不尽な契約の問題が表面化するなどかなりズタボロな状態で「相応の対価によってライセンスの買戻しがあるならありがたい」くらいな感じなのだろう。
TokyoPopのOELマンガの現状についてはNewaramaのこここここことかTHE BEATとかComics Worth Readingとかに死ぬほど関連記事があるみたいなんだが、まだちゃんと読んでないのでとりあえず保留。

「グラフィックノベル」としてのマンガ

『Publishers Weekly』の「Comics Week」を読んでいて青林工藝舎『アックス』のアメリカ版発売のニュースを知った(発売元はTop Shelf)。先週届いたアマゾンでも買えるようになった『The Comics Journal』#292林静一『赤色エレジー』のアメリカ版(こちらの発売元はdrawn and quarterly)のレビューとあわせ、けっこう複雑な気分になる。
以前アメリカでのアニメの受け入れられ方についてこんなことを書いたことがあるが、これとほぼ同様の「クリティカルな「評価」とコマーシャルな「人気」が分裂したかたちで並存する」環境がマンガについてもほぼ完成しつつあるのではないかと思ったからだ。
もちろん、こうしたクリティカルな「評価」による日本マンガの紹介はこれまでにも存在していた。90年代はじめにはアート・スピーゲルマン一派によって『RAW』で水木しげる丸尾末広の作品が紹介されており、以前田中秀臣さんが触れていた辰巳ヨシヒロなどはおそらく日本国内より欧米での評価のほうが高い。
こうした批評的な「評価」の高い作品の紹介はもともとVizがやってきたようなコマーシャルな作品の紹介とは一線を画したかたちでおこなわれてきており、はじめから分裂しているといえばいるわけだが、ここ最近のこうした動きがある種の重要性を持つと思うのは、今夏の講談社USAの発足によって日本マンガの「コマーシャルな「人気」」の部分のほうをビジネスとして囲い込む環境がほぼ完成したといえるからだ。
いうまでもなく現在のVizは小学館集英社という日本のマンガ出版最大手二社の合同出資子会社であり、今年はスクエア・エニックスと専属契約したYen Pressというパブリッシャーが半分がスクエニ系のアニメ化作品の翻訳、半分がオリジナル作品という『Yen+』という雑誌を創刊するという興味深い動きもあった。講談社もこれまでランダムハウス講談社の関係からほぼ独占的にランダムハウス傘下のDel Reyに版権をおろしてきているのだが、今回の現地販社立ち上げによっていよいよ日本の大手マンガ出版社のアメリカでの版権はよりはっきり系列化されガチガチに固められることになる。
実際に90年代のマンガ出版に大きな役割を果たしたDark HorseTOKYOPOPは軒並みマンガ出版ラインの規模を縮小しており、サブプライム問題に端を発する不況や大手出版チェーンBordersの倒産騒ぎなどの影響もあって、今後はここ数年右肩上がりで成長し続けてきたアメリカにおける日本マンガ出版全体の成長が止まり縮小傾向になるだろうと予想されている。
こないだ夏目房之介さんのゼミで聞いた椎名ゆかりさんのお話によればそうした中で注目されているのが「グラフィックノベルとしてのマンガ」なのだという。このとき椎名さんはVERTICALの一連の手塚治虫作品(『ブッダ』、『きりひと賛歌』、『MW』など暗くて重い作品が多い)の翻訳の成功を例に挙げ、現在の新書版ペーパーバックスタイル(TankobonもしくはDigestなどといわれるフォーマット)ではなくグラフィックノベル(この場合は出版フォーマットとしての大判のトレードペーパーバック)としてマンガに活路を見出せるのではないかという声がアメリカのマンガ出版関係者のあいだにあることを紹介していた。
その戦略の可否は置くとして、ここでいう「グラフィックノベルとしてのマンガ」はどう考えても内容的には「クリティカルな「評価」」の方向を志向するものであり、ライセンス管理の系列化がここまで進んでいる以上アメリカのパブリッシャーにとっては事実上その方向しか選択肢がなくなってきているのだともいえる。

おまけ

久生十蘭に関連した小ネタとして先日ここ経由でこんな話を知ってちょっとおかしかったのだが、『新西遊記』については橋本治が編んだ国書刊行会の日本幻想文学集成12巻『久生十蘭:海難記』の編者解説に非常に示唆的な記述がある。

『新西遊記』はこの部分だけで十分呆っ気に取られる博物学小説なのだが、久生十蘭の見事さというのは、「この引用がどこまで本当か?」と読者の眉に唾をつけさせるところにある。久生十蘭の引用は、多分みんな本当だろう。がしかし、久生十蘭はその引用を全部自分の文体にしてしまうものだから、この引用がとても引用とは思えない面白さになって、その結果「とても本当とは思えない……」になるのである。河口慧海山口智海に変えてしまう嘘はあまり嘘とも思われず、本当であるはずの引用を嘘にしてしまうところが、久生十蘭の叙述の魅力であろう。
(「解説」、橋本治、日本幻想文学集成12巻『久生十蘭:海難記』、国書刊行会刊、1992年、246P)

正確にいえばここで橋本のいう「引用」は厳密には引用ではなく「資料にもとずく知識の披瀝」だが、小説の叙述というものの魅力がどこにあるかということの明快な指摘だと思う。
というか「チベットの拷問」云々という偏頗なトリビアより久生の小説読んだほうがはるかに面白いのでこの機会にみんな読むとよいと思います。

「定本 久生十蘭全集」刊行開始

久生十蘭オフィシャルサイト準備委員会:久生十蘭の仕事部屋から(49)
http://blog.livedoor.jp/hisaojuran/archives/51386995.html

歿後五十年記念出版
小説をはじめエッセーや翻訳等、全作品を殆ど収録した全集
旧全集(三一書房版)の約2倍の分量
● 第1巻〜第9巻の小説(一部戯曲も含む)は編年体をもって編集
● ○は三一書房版「久生十蘭全集」未収録の作品。*は長篇。
【第1巻】 小説1 1933-1938

ノンシヤラン道中記*
つめる
○名犬
○黄金遁走曲*
○義勇花白蘭野
金狼*
○天国地獄両面鏡
黒い手帳
湖畔
魔都*
○妖術*
お酒に釣られて崖を登る話
○戦場から来た男
○花束町壱番地


● 解題 江口雄輔
国書刊行会の新刊ページの書籍情報、http://www.kokusho.co.jp/shinkan/index.html

素晴らしい。
翻訳、エッセイ、戯曲の類までキチンとまとめられるのは快挙。

コミックス研究の誕生

このブログの作者Jeet Heerは新聞や雑誌などに発表されたマクルーハンウンベルト・エーコといった著名な言論人によるコミックス論を集めたアンソロジー『Arguing Comics』の編者のひとりであり、12月に発売予定の『A Comics Studies Reader』の編著者のひとりでもある研究者、ジャーナリストであり、このエントリはUniversity Press of Mississippiでコミックス研究ラインを立ち上げたacquisition editor、Seetha Srinivasanにインタビューしたもの。先に述べた90年ごろのアメリカにおけるコミックス研究ルネッサンスについての貴重な傍証となる証言である。
Heer自身より翻訳の許可をもらったため、以下に全訳を公開する。

「コミックス研究の誕生:University Press of Mississippiが果たした役割」

研究は離れた街や大学の片隅など、しばしば思いもかけないところに花開くものだ。いくつかの理由からセントルイストマス・アクィナス研究のメッカとなり、ノヴァスコシア州ハリファックスは現代のヘーゲル研究者たちの故郷となっている。1960年代のサンディエゴは西側マルクス研究のかつてない母体だった(ジャン・ボードリヤールマンフレッド・タフーリフレデリック・ジェームソン、ヘルベルト・マルクーゼらがそこで暮していた)。

同様にコミックス研究の歴史が書かれる際にはミシシッピ州ジャクソンの何人かの編集者たちの仕事に対してその紙幅が割かれることになるだろう。そこはUniversity Press of Mississippi (UPM)のホームタウンであり、この二十年近くのあいだコミックス研究の最前線であり続けてきた。1990年代以前にはコミックス研究はいまあるような形では存在していなかった、そのかわり多くの異なった方法論(美術史、メディア論、そして心理学)で書かれたいくつもの本があちらこちらにただ点在していた。UPMの達成はただコミックスに関する多くの本を出版したというだけではなく、それらをひとつに集めてコミックス研究という実体を与え、研究者たちがそのアイディアや議論を参照し合い共有できる一貫した方法論を確立したことにある。(もっとも私自身、UPMからケント・ワーセスターとの二冊の共編著『Arguing Comics: Literary Masters on a Popular Medium』と出版予定の『Comics Studies Reader』を出しているため公正中立なオブザーバーの立場ではないという点はつけ加えておく)

最近になって他の大学出版局(特にイェール、シカゴ、そしてトロント)もコミックスに関する研究書の出版をはじめたが、依然としてUPMがその最前線に位置し続けていることには疑問の余地がない。UPMの貢献度を測るには彼らの出版物の多くがアカデミズムを超え、メインストリームメディアの注目を集めている点を見ればいい、デヴィッド・クンズルのルドルフ・テプフェールの伝記(この本には多くのテプフェールの作品が翻訳され、収録されている)は『New Yorker』、『Bookforum』、『Harper's』の各誌で好意的な書評が掲載され、『New Yorker』はまたバート・ビーティーの『Frederic Wertham and Critique of Mass Culture』にも言及している。『Arguing Comics』は『New York Review of Books』で取り上げられた。

ではUPMによるこのコミックス研究のかがり火はいかにして掲げられたのだろうか? 1980年代半ばUPMの公募編集者のひとりだったシーサ・スリニヴァサンは「South Atlantic Modern Language Association」のミーティングに赴き、彼女はそこでコミックス研究に関心を持つ英語教授M.トーマス・インゲと出会った。インゲは彼女にUPM は出版社としての方向性を明確化すべきだと語り、アメリカンポピュラーカルチャーをカバーするように示唆した。1987年にはインゲのコミックスへの強い情熱に動かされスリニヴァサンは彼とともに同社のコミックス研究書ラインを築きはじめる、まずジョセフ・ウィテックの先駆的な論文『Comic Books as History』、そしてインゲ自身のコミックス関連エッセイを集めた『Comics as Culture』がスタートラインナップだった。

スリニヴァサンとインゲはラインを継続していくにあたって多面的なアプローチをとることにした。彼らは古典的なテキストの再販をおこない(コールトン・ウォーの『The Comics』、様々な論者によるコミックス論を集めた『Arguing Comics』など)、若手研究者たちの単独論文を出版した。それまではファンジンでしか書いていなかったが理論的に重要な書き手に著作を公表する機会を与え(R.C.ハーヴェイ)、他国の研究の翻訳をおこなった(たとえばテプフェールのコミックスがそれだ)。そして特定のキークリエイターに焦点を当てた研究 (代表的なのはアート・スピーゲルマンロバート・クラム、スタン・リーといったクリエイターたちへの単独インタビューをそれぞれ書籍化した「Conversations」シリーズ)。スリニヴァサンとインゲはこうした将来を見据えた多様なアプローチでUPMの出版リストを構築し、それまでは実体のはっきりしなかったコミックス研究のありかたに一貫したすじみちを与えた。

シーサ・スリニヴァサンは先ごろ長かったUPMでのつとめから退いた。私はこれは彼女にUPMでの仕事についてちょっとした質問をするにはいい機会ではないかと考えた。

ジート:最近はいくつかの出版社がコミックスに首を突っ込んでくるようになったけれど、UPMはこの分野のパイオニアでありもっとも強力なコミックスに関する研究文献の刊行リストを築き上げてきた出版社だと思います。カタログを見る限りではもともとUPMはアメリカのフォークカルチャーとポピュラーカルチャー(特にアメリカ南部とアフリカンアメリカンのそれ)に主要な興味があったのだと思いますが、このフォークおよびポップカルチャーへの関心を拡大したものがコミックス研究のホームとしてのUPMをつくりあげたのでしょうか?

シーサ:UPMがポピュラーカルチャーシリーズを立ち上げたときは誰も彼もがポップカルチャー研究の話をするのに夢中になっていた時期だったの。私たちの叢書はそのカテゴリーの中に音楽、ユーモア、旅なんてものまでを含めていました。コミックス研究が強調されることになったのはトム・インゲの「コミックスはその価値に見合ったまじめな関心を払われてこなかったポピュラーカルチャーの重要な一部である」という長年に渡る強固な確信に由来するものです。トムは同じような関心を持つ研究者たちを知っていて、私たちがこの企画をはじめたとき彼らをUPMに向かわせてくれました。刊行点数が増えていくにつれ、UPMのポピュラーカルチャータイトルは地方文化の研究など他の分野のタイトルとテーマ的な交錯を起こすようになりました。そしてそうしたすべてが互いにサポートし合い素晴らしいシナジー効果を生んでくれているのです。たとえばUPMの映画論と映画作家の伝記を集めたシリーズはファン的な愛情を込めて書かれていますが、同時にそれらをポピュラーカルチャーとして対象化しています。『Voodoo Queen: The Spirited Lives of Marie Laveau』のような本はどうでしょう、あれはポピュラーカルチャーの本でしょうか、それともフォークロア、地方文化論? そのすべてでありながらそれ以上であるような本、そういうものが私たちがミシシッピで出版しようと試みたものです。

ジート:トム・インゲの役割についてもう少し話してもらえますか?

シーサ:私の考えではトム・インゲこそ私たちの叢書をつくりあげてくれたひとだと思います。私にはアイディアがありましたが、彼の知識と人脈がなければそれを実現することはできなかったでしょう。トムは自分と同世代のコミックスに関心の高い研究者を知っていただけではなく、より若い世代の研究者たちの指導者でもありました。彼はそれらを私たちの会社と結び付けてくれたのです、そのおかげで私たちは彼らの仕事を出版することができました。
ジート:UPMがおもしろいのはそれが先駆的なものだったところです、当時(1990年)のコミックスに関する出版物としてはコミックス研究はまだ生れたばかりの雛鳥のようなものにすぎませんでした。この最初の時期にあなたとトムはアカデミー外部の書き手を用いたり(私はここでR.C.ハーヴェイのいくつかのすぐれた仕事のことを考えていた)、古典的な研究書(バーガーのアル・キャップ論、ウォーの初期コミックス論)の復刻をおこなったりした。このためUPMは文学研究がすでに癒着していたその出発時にコミックス研究に健全なプラットフォームを築こうとしていたように思えます。これは当時の状況とあなたがたの考えに対する妥当な解釈でしょうか?

シーサ:コミックス研究の出版を決めると同時に、たしかに私たちは自分たちの刊行予定リストに入手可能な絶版書籍を含めることを試みました。おわかりのようにこれは特定分野に力を入れ、自分たちのブランドを構築しようとしている出版社としては珍しい試みでした。またUPMではアカデミー外の書き手の本の出版にも門戸を開きました。すべての原稿は私たちの標準的な査定と承認手続きによって審査され、それをパスすれば書き手の立場は問いません。

ジート:あなたのお書きになった『International Journal of Comic Art』の記事によれば、コミックス研究に対しては抵抗もあったとのことですが、出版にまつわる困難と実際にこの分野の書き手と接してみた感想に即してその部分をもう少し教えていただけますか? この分野に関してはコピーライトとアートや記事の引用の難しさもあると思いますが。

シーサ:私たちの著者ひとりから彼の学位論文の課題が卒業式で発表されると出席者のあいだから嘲笑の声があがったと聞きました、彼はその後自分のテーマを受け入れてもらうためにひどい苦労をしなければなりませんでした。かつて原稿に関する会議の席で私はその本の著者になぜ彼の分析でコミックスの要素は理論的な解析部分のみに結びつけれれ、主題そのものと関連付けて論じられていないのかと尋ねたことがあります。彼は私にその本の原稿ではそうした要素は「よけて」おかないと彼の主題自体が研究にはふさわしくないと考えられ研究論文としては扱ってもらえなくなると確信していると語りました。けれど、私の観点ではこうした障害はコミックス研究者の増加によって取り払われつつあると思います。また、私はUPMの編集委員の何人かからも「UPMがコミックスに関する本の版元としてしられていいのか?」といった疑念があがり、抵抗があったこともいっておきます。しかし、そこでいわれる「研究出版としてのふさわしさ」とはなんでしょうか? 最初のタイトルを出版するためには、彼らの信ずるところにしたがってコミックスが持つ文化における中心的な役割を納得してもらい、リスクを背負うことを納得してもらわねばなりませんでした。その後彼らもまた自分たちのこの分野の研究の価値に関する思い込みが間違いだったことを認めてくれるようになったのです。
いままでのところ私たちは図版等の引用に関しては深刻なトラブルになっていません。ディズニーでさえ、返答待ちの長い時間とそれなりの支払いをしたうえとはいえ許可をしてくれています。私たちは著者に対しては図版の使用は議論のうえでどうしても必要なものに限り、見た目を飾るためのものにしないようにとアドバイスすることにしています。この方針は私たちと権利保持者の関係を良好に保つための助けになってくれているでしょう。

ジート:いっぽうUPMのコミックス分野の出版物が興味深いのはそれらの多くがメインストリームの、アカデミズム外のメディアで取り上げられていることです(『The New Yorker』、『Bookforum』、そしてコミックスプレス)。アカデミックコミュニティー外の関心を引き起こすためにどのような挑戦をし、結果としてどういう反響がありましたか?

シーサ:UPMのコミックス研究書に対してメインストリームメディアが反応してくれるようになったのは最近のことです。ウチの本はやはり主としてコミックス研究に関連したメディアで論じられています。おもしろいのはコミックス自体がメインストリームメディアで取り上げられるようになったことで、それでもやはり『New York Times』の日曜版別冊付録で毎週コミックスが取り上げられるようなことにはなっていない。メインストリームメディアがUPMのコミックス研究書を取り上げてくれるのはなんらかの努力の結果というよりそれ自体がその研究の重要性の証明であり、最高のご褒美だと思っています。私たちの挑戦は自分たちの本がちゃんと手に入るようにすること、ほとんどの研究書が適切な値引率で書店の店頭に置かれ、インターネット書店でもちゃんと手に入るようにすること、もちろんレビューは歓迎します。だけど自分たちの本が『Harper’s』やなにかでレビューされるにはどうすればいいかなんて、別な話じゃないかしら?
(「The Rise of Comics Scholarship: the Role of University Press of Mississippi」、Jeet Heer、http://sanseverything.wordpress.com/2008/08/02/the-rise-of-comics-scholarship-the-role-of-university-press-of-mississippi/

文中で述べられるトーマス・インゲは現在のアメリカでもっとも活発にコミックス研究活動をおこなっている学会PCA/ACA「Comic Art & Comics」部会設立の中心メンバーで研究助成金制度「M. Thomas Inge Award」にも名を使われているアメリカコミックス研究の最大の功労者のひとり。文中でも述べられているように先に挙げた『Comics as Culture』の著者である。
前述したアメリカコミック研究史の傍証としてのみならず、このテキストは研究や批評における出版社の役割などさまざまなことを考えさせてくれるものだと思う。