ふたつのモーメント

でまあ、ここまで書けばおわかりだと思うが、私はこの特集で結果的に構築されている「最近になって表現論と反映論の対立が起きてきた」というプロレスでいう「アングル」はまったく根拠のない無責任な虚構だと思っている。それが短絡的、もしくは素朴であるか否かにかかわらずマンガを語る言説のモーメントとして表現論と反映論という対立軸は潜在的にずっと存在してきたといえばきたし、そんなものはないといえばない。
 このことに関しては「マンガ批評の部外者」として発言している東浩紀伊藤剛との対談「マンガの/と批評はどうあるべきか?」のなかで非常に明快なかたちで示してくれている。

東 それもまた、マンガ批評というよりも批評一般の話ですよね。表現論対反映論というのは、つまり、記号の内的な構造に注目するか記号とその外部(現実)との関係に注目するかという対立です。いわゆるポストモダン派は、ひとことで言えば、記号と現実の関係はきわめて疑わしいのでまず記号の構造を見ろ、と言った。というわけで、『批評空間』派は加藤典洋浅羽通明宮台真司もみな一緒くたに評価しなかった。しかし、九〇年代後半にポストモダン派のヘゲモニーが崩れて、今度は反映論的なパラダイムばかりになった。批評は現実を掴むものという理解が拡がり、、それがいまでも続いている。マンガ批評もそういう大きな流れから無縁ではないということでしょう。
(「マンガの/と批評はどうあるべきか?」、東浩紀伊藤剛、『ユリイカ』2008年6月号、青土社刊、2008年、134P)

 東がいう「ヘゲモニー」がどちらにあるかは正直どうでもいいのだが、この東の発言で重要なのは「批評」が「記号の内的な構造に注目するか記号とその外部(現実)との関係に注目するかという対立」の中で揺れ動いていくものだ、という指摘である。
 この考え方はそのまま夏目房之介『マンガ学への挑戦―進化する批評地図』NTT出版刊、2004年)で示された鶴見俊輔石子順造石子順造石子順石子順村上知彦米澤嘉博、村上、米澤らと岡田斗司夫、岡田と夏目自身といったマンガ批評言説の連なりにそのまま適用することができる。そして、この対立構造は現時点ではそれぞれ夏目(表現論)と大塚英志(反映論)として把握することができるものだ。だからこそ大塚への批判者として表現論の側から伊藤が登場したのであり、私が先に触れた自分の著作で「反映論」であることをわざわざ謳ったのもある意味で伊藤の著書『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年)のあとのものであることを明確に意識せざるを得なかったからだ。
 要するにこのふたつの対立は常にあったといえばあったのだし、逆に「マンガを語る」という行為を駆動するために常に並存するふたつのモーメントなのだともいえる。方法論的にまったく逆ベクトルなのだから対立はしているし、これらの言説の蓄積そのものを螺旋状の連なりと見るならばそのような対立構造そのものが「マンガを語る」言説それ自体を駆動してきたものだともいえる。当然、このふたつが並存すること自体にはなんの矛盾もない。
 問題は、このようなふたつのモーメントによって織り成される大雑把な布置自体は置き去りにしたまま、この特集の論者たちが現状におけるこの二極の「ヘゲモニー」だけを問題にしていることだ。宮本も杉田も相手こそ主流派であり、自分たちは少数派である、という仮想的な構図をつくって自分の批判(正確にいえば宮本は批判もしてないのだが)の正統性を担保しようとしているように見えるが、コマーシャルな意味でいえばそんなもんどっちも少数派であって、マンガに関する言説で「常に」主流にあるのはバイヤーズガイドやファンブックだし、研究レベルでいえば2006年以降の最大の変化であり、もっとも影響力が大きかったと思われるのは中野晴行『謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影』筑摩書房、2007年)、清水勲『戦後漫画のトップランナー横井福次郎―手塚治虫もひれ伏した天才漫画家の軌跡 』臨川書店、2008年)といった地味な評伝の出版や小学館クリエイティブによる一連の復刻などのほうである。
 そうしたプラクティカルな認識でもジャーナリスティックな視点でもなく、かといって言説史的な整理の意識もないままに「思う」「らしい」と提示される状況論にははったり以外の意味はない。だいたい宮本さんは読んでもなかったのになに考えてオレの本の影響力が強いといったんだか(w

「マンガ批評の新展開」の話

 知ってるひとは知っている話で、この箱の中味を書いているのは小田切博とかいうひとなのだが、その人物が寄稿したので届いた『ユリイカ』6月号「マンガ批評の新展開」をざっと読んだら一冊全体で「表現論vs社会反映論」という図式のある特集になっていて、無責任にも「うへぇ」と思った。

まずこの特集巻頭に付された泉信行夏目房之介との鼎談「マンガにおける視点と主体をめぐって」で宮本大人は2006年1月の『ユリイカ』での特集「マンガ批評の最前線」以降「マンガとマンガ表現の外部を関連付けて論じましょうという流れが強かった」といっている。だが、実際には2006年以降出版されたマンガ関連の書籍で「マンガとマンガ表現の外部を関連付けて論じましょう」というコンセプトの本だと明確にいえるのは私自身の『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』NTT出版、2007年)と永山薫昼間たかし『マンガ論争勃発』(マイクロマガジン、2007年)の二冊くらいである。宮本自身が「表現論」だという伊藤剛の新著だけでこの間二冊出ているのだから、なぜ「強まった」といえるのか単に理解に苦しむ。また、宮本はこうした動きの一例として「腐女子・BL」への関心なども挙げるのだが、これはもっとバカげた話であって、そんなことをいうなら90年代以降延々存在するおたく論の系譜はどうなるのか?
宮本はこの鼎談でじつに繊細に定義したうえで「表現論といえるのは夏目・伊藤ラインだけ」的なこともいっているのだが、いっぽうでこの間「強かった」という「外部との関連」を論じる言説の扱いはこのようにおそろしくぞんざいなのである。

いっぽう、これとは逆に杉田俊介福満しげゆき、あるいは「僕」と「美少女」の小規模なセカイ」は「反映論」的な立場から「近年のマンガ批評の傾向」を批判する。
杉田は伊藤剛『マンガは変わる』青土社、2007年)のサブタイトルを引きつつ以下のようにいう。

 「マンガ語りからマンガ表現論へ」というのが近年のマンガ批評の傾向らしい。これまでに表現論がなかったわけではない。竹内オサム『マンガ表現学入門』([2005])の巻末をぱらぱらとめくると、文学や映画に比べればまだ未開拓にせよ、それなりの分量の文献が蓄積されてきたと分かる。特に一九九〇年代半ば以降は、夏目房之介[1996]や四方田犬彦[1994]、また夏目+竹熊健太郎編著[1995]などの基礎文献が出揃い始める。スコット・マクラウド[1998]も翻訳される。最近では竹内オサム[2005]、伊藤剛[2005][2007]、イズミノウユキ[200711][2008]などが重要な達成だろう。アニメ表現論として黒瀬陽平[2008]もある。
 しかし、やや訝しく思う点がないではない。「内容から表現へ」「印象批評から科学へ」という面を重んじるあまり、マンガにまつわる政治性や批評性が奇妙につるりと剥ぎ取られている。それは竹内が言う「九〇年代以降のマンガ表現論への不満」とも関わる。科学や中立を装った何か奇妙なナイーブさが蔓延している。自己完結した初期設定の下で、ひたすら経験値を上げるRPGのような議論。その屈託のなさを、ぼくは時に不気味に思う。素朴な印象批評・社会反映論・イデオロギー批評に戻れ、と言いたいのではない。重要なのは、たとえばロシアフォルマリズムが典型的であるように、形式の中に染み込んだ社会性・政治性の水準を見ることではないか。(引用者注:原文では強調部が傍点)
(「福満しげゆき、あるいは「僕」と「美少女」の小規模なセカイ」、杉田俊介、『ユリイカ』2008年6月号、青土社刊、2008年、91〜92P)

 一読すればあきらかなように、杉田は宮本とは逆に「近年のマンガ批評の傾向」を「表現論」の側に集約したうえでその傾向を批判している。しかし、奇妙なことにこの点は宮本と同様に「表現論」がマンガ批評の主流である根拠は「らしい」という言明の他には示されない。
 つまり、この特集は状況論として相矛盾するどころか真逆の観点が同時に提示され、しかも双方その根拠がきわめて怪しいという困ったことになっているのである。

共同通信のジョジョ問題に関する記事について

以下に書くことは23日付のエントリでも指摘していることなのだが、あまり問題にもされていないようなのでよりはっきりしたかたちで改めて書く。
この件に関して現時点でもっとも問題だと思われるのは集英社の対応でもイスラムからの反応でもなく、大元のソースと思われる共同通信の配信記事が国内向けと英語版でまるで違っている、という点だ。

英語版
Publisher to suspend cartoon sales after Muslims say it insults Islam
http://www.japantoday.com/category/national/view/publisher-to-suspend-cartoon-sales-after-muslims-say-it-insults-islam

国内向け
日本アニメ、中東で非難 「コーラン読み殺害指示」
http://www.47news.jp/CN/200805/CN2008052201000102.html
異文化への無知で波紋 ネット通じ思わぬ視聴者
http://www.47news.jp/CN/200805/CN2008052201000448.html

一読してもらえばわかるが、日本語の記事には私が23日に紹介した具体的なイスラムの反応とエジプトのキリスト教徒の感慨の記述がほぼすべてそぎ落とされている。辛うじて「イスラムスンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教勧告委員長アトラシュ師」のコメントが削減されたかたちで残されているくらいで、私が紹介していないアル・ジャジーラ掲載(5/25修正:読み返してみたらアル・ジャジーラの記者が自分のサイトで書いたってことらしい)の非難の記述なども含め、情報量的には半分以下になっているといっていい。
この英語版配信記事はすでに別な英字新聞Japan Timesでほぼ同内容の記事「'Anime' stokes ire of Muslims」(http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20080523a1.html)が出ている他、無数のブログやフォーラムに転載されてもいる。当然アラブやヨーロッパの各言語の報道もこの「英語の」記事を元におこなわれるはずで、実際国内の新聞報道もこの「英語の」記事から情報を切り貼りするかたちでつくられていると思われる。以下に日本の主要メディアでの報道を列挙するので読み比べてみることをお勧めする。

時事通信
人気漫画「ジョジョ」一部出荷停止=イスラムめぐり不適切表現−集英社
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200805/2008052200696&rel=j&g=soc
コーラン」登場の批判、昨年から=数百のサイトに−アニメ「ジョジョ
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008052201009

朝日新聞
アニメのコーラン描写「不適切」 集英社が一部出荷停止
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200805220115.html

毎日新聞
ジョジョの奇妙な冒険:DVD作品にコーラン不適切表現 出荷停止へ
http://mainichi.jp/enta/mantan/anime/news/20080522mog00m200008000c.html

日経新聞
日本のアニメ、中東で批判・集英社、DVDなど出荷停止
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080522AT1G2201622052008.html

讀賣新聞
ジョジョ」DVDにコーラン落ちる場面、集英社が出荷停止
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080522-OYT1T00371.htm

産経新聞
日本アニメ、中東で非難
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/080522/gam0805221746001-n1.htm

日刊スポーツ
ジョジョの奇妙な冒険」に中東で批判
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080522-362998.html

サンケイスポーツ
日本のアニメ「ジョジョの奇妙な冒険」に中東で非難の嵐
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200805/sha2008052301.html

なぜこの情報の落差が問題なのかといえば、日本製品不買運動や制作者の意図への非難の記述はイスラム側の怒りも非イスラムの反感もともに煽る働きを持っているからだ。具体的にはJapan Todayの記事につけられたコメントを読んでもらうのがいちばんよいが、英語を読むのが面倒なら23日付の私のエントリにつけられたブックマークコメントを見てもらうだけでもなんとなくそのことはわかるはずだ。
グローバルスタンダードな英語記事には対立の構図を煽る記述が存在し、国内向けの報道ではその部分がことごとくうすぼんやりしたかたちでしか書いていない。仮にこの英語報道の論調がヨーロッパメディアで「表現の自由の危機」と大々的に報道されたり、逆にアラブ圏でより大規模なジャパンバッシングを誘発したらどうするのか?
この問題が「問題化」するかどうかは実際には欧米やアラブ圏の大手メディアでどう報道されていくか(あるいはまったく報道されないか)にかかっていると思うので一概にはいえないが、この第一報の時点で完全に一方の当事者である日本国内向けと海外向けの報道のあいだにこのような情報格差をつくるのはほとんど「将来自分が引っかかるためのブービートラップをわざわざ仕込んでいる」に等しい。
前の記事が不必要に注目を集めたため、私自身が煽ったかたちになっているのであまり偉そうなこともいえないが、私個人の意見に共感するとか反発するとかいったことはどうでもいいので、誰によらずこの件に関しては今後の海外メディアの動向をキチンと注視してほしい。

ジョジョ話に関する英語報道

完全に日本の話なのに案の定英語報道からのほうが得られる情報が多い。
現時点でもっともまとまっていていろんな意味でわかりやすいと思ったのが「東京で出されている」英語紙『Japan Today』の記事。これはコメントも含めてちゃんと読むとこの事件がどう見られているのかがかなりはっきりわかる。クレジットを見る限りでは記事自体は共同通信からの配信記事のようだが、なぜか共同のサイトで読める日本語記事の倍程度の情報量がある。文中に海賊版に関する記述もあることからおそらく大本のソースは共同のカイロ支局の記者がまとめた記事なのだろうと思う。
記事のタイトルは「Publisher to suspend cartoon sales after Muslims say it insults Islam」、日本語にするなら「ムスリムが侮辱だといったら出版社がマンガの販売を差し止め」ってところか。このタイトルのポイントはcomicsではなくcartoonの語が使われている部分、問題になっているのはアニメなのでこの用法は適切だともいえるが、書いた側としては当然読者に「Danish Cartoon」を意識させる意図があるだろう。実際、この記事の冒頭では今年はじめにオランダの議員がネット上にアップしたコーラン批判映像の件とともにムハンマド風刺画事件が触れられている。

【カイロ】日本の人気漫画がイズラム世界からの抗議の炎にさらされている。そこにはヨーロッパの新聞各紙が預言者ムハンマドの風刺画を掲載した事件と今年はじめオランダ人議員が発表したコーラン批判映像以来の恐怖の影響が見られる。
http://www.japantoday.com/category/national/view/publisher-to-suspend-cartoon-sales-after-muslims-say-it-insults-islam

というわけで望むと望まざるとに関わらずこれは「ムハンマド風刺画事件」の類似例として見られてしまっている。
なんで日本の新聞社がこの部分を使わないのか理解に苦しむが、この記事はかなりイスラム側の論点をはっきりと伝えていて、その部分を読んでもこのことは明確に理解できる。

カイロを中心に活動するイスラムスンニ派教学の最高権威機関アル・アズハルの宗教勧告委員長アブドゥル・ハミド・アトラシュ師(Sheikh Abdul Hamid Attrash)はこのアニメはイスラム教への侮辱だと切り捨てた。
「このシーンはイスラム教徒をテロリストとして描いている、これはまったく事実と異なる」彼はいう「これは宗教に対する冒涜であり、制作者達はイスラムの敵と考えられるだろう」
この非難に対する集英社側の公式説明はこれは「単純ミスだった」というものである。
「原作マンガもアニメーションもムスリムを悪役として扱ってはいません。しかし、結果としてこの作品がイスラム教徒のみなさんを怒らせてしまいました」こう公式説明ではいう「私たちはこの作品が引き起こした不快の念を謝罪するとともに今後文化や宗教のテーマの取り扱いにより慎重に取り組みたいと考えています」
http://www.japantoday.com/category/national/view/publisher-to-suspend-cartoon-sales-after-muslims-say-it-insults-islam

この仮想問答が噛み合っているようで噛み合っていないのはおそらくアトラシュ師が問題になったシーンの静止画を見ただけで(そもそもこの問題が「問題化」したのはサイトに静止画を投稿し「コーラン批判だ」とコメントしたユーザーがいたからである)『ジョジョの奇妙な冒険』という作品の基本的な設定やストーリーも理解していないと思われるからだ。
問題の悪役ディオ・ブランドーはイギリス人孤児であり劇中に彼がイスラム教徒になった描写は存在していないし、犯罪性向としてもマニアックではあってもテロリストとはいいがたい。
つまり、ムハンマド風刺画問題等のイスラムバッシング表現で過敏になっているところに悪党がコーラン読んでいるシーンを見せられたので「悪意ある宣伝」と解釈して怒っているだけなわけで「悪意があるわけじゃなくてバカなんです」という集英社の言い訳はそれ自体としては正しいと思う。
正しいとは思うが、だったら内容を(しかも日本国内のプロダクトの内容を)泥縄で修正するより前にもっときちんと実際に描かれている内容を説明したらどうなのか。むしろ正式にライセンスして内容に対する誤解を受けないようなかたちで広く読んでもらうようにすべきではないのか。
反発されるかもしれないが、こういう現象が起こるのはそもそも現地販社がキチンとないままファンサブのようなかたちで勝手にコンテンツが流通してしまっているからでもある。公式にライセンスされていれば事前に問題になりそうな箇所をチェックしてローカライズのうえでリリースするようなこともできるし、問題が起きても現地で対処できる。むしろ「ちゃんと売る」ことのほうを考えるべきだ。でないといくら謝罪しても向こう側がこちらの事情をまったく理解できない。
実際に集英社からの公式説明が出て以降もこの妙チキな誤解に基くジャパンバッシングは続いているらしい。

出版社の謝罪にも関わらずアリィ・ヤシン(Aly Yassin)のようなひとびとはこれを誤りとは認めようとしていない。
カイロにあるインターネットカフェのオーナー、アリィ・ヤシンは日本の製作者hたちの目的が「邪悪なキャラクターがこの本、聖なるコーランから破滅的な考えを得る……これはイスラムに対する根深い怨嗟とコーランの意味に対する誤解を広める」ことにあると信じている。「これは言い訳できない」そう彼はいう。
また、アル・アズハルの前宗教勧告委員長ガマル・クトブ(Gamal Qutb)のようなより過激な論調の者もいる。彼はムスリムは問題のビデオに対して日本政府が対処するまで日本製品不買運動をおこなうべきだと示唆する。
ムスリムは彼ら(訳注:西側ということだろう)の文化を強要されている。彼らの信仰に異議を申し立てるには必要なら同じ強要として彼らの製品の不買運動によるのが妥当だろう」と彼は書いている。
http://www.japantoday.com/category/national/view/publisher-to-suspend-cartoon-sales-after-muslims-say-it-insults-islam

いや、そもそも日本人が売ったわけじゃないわけですが。
90年代くらいまで韓国なんかでも日本マンガの「海賊版」の文化的悪影響が批判されたりしていたのだが、海賊版の文化的悪影響の責任なんか単に取りようがない。公式にライセンスしたものであれば日本の責任を問うのが道理だが、文化的に許容出来ないならそもそも自国で海賊版を流通させなければいいのである。この場合イスラムのひとたちもむしろ「ちゃんと売らず」に海賊版の流通を放置したことに日本の責任を見るべきだろう。
しかし、一番ヤバいなあと思うのはこの記事がベイルートキリスト教徒の視点で締められていることである。このヘンリーという人物はイスラムの「表現の自由」への不寛容を懸念し、それがハリウッド映画の描くイスラムのネガティブイメージの補強につながると嘆いているのだ。
まあ、このひとは単なる善良な一市民なんだろうが、要するにこの記事は意識的か無意識的かにかかわらずこの事件自体を「信仰」と「表現の自由」の対立というムハンマド風刺画事件で結果的にでっち上げられたステレオタイプに当てはめようとしている。今後欧米メディアでどう報じられていくかはわからないが、これはそもそも風刺画事件自体まともに報じられておらず特にステートメントも出していない日本が気がついたら紛争当事者になっていた、ということもじゅうぶんあり得る話だと思う。

ジョジョとムスリム

……いやだなあ、こんな脳が腐りそうな話に関わるのは。
しかし、ムハンマド風刺画問題について書いたら直後に暗殺未遂犯逮捕されて一斉再掲載されたし、たまたま昨日ひとのブログで風刺画事件絡みでコメントしたら翌日こんなニュースが届くんだから、これは書いとくべきなんだろう。

日本アニメ、中東で非難

【カイロ22日共同】日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」の中に、悪役がイスラム教の聖典コーランを読みながら主人公らの殺害を命じる場面があり、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが二十二日までに分かった。原作コミックスの出版元でアニメ製作も主導した集英社(東京)は同日、問題のアニメのDVDと原作コミックスの一部を出荷停止にすると発表した。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/080522/gam0805221746001-n1.htm

確認した限り国内メディアからのものとしてはもっとも情報量が多いので産経MSNから引いたが、すでに主要な新聞各紙で同趣旨の記事は配信されている。集英社からの公式ニュースリリースは以下。

 集英社発行の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」を基に制作されたオリジナルアニメーション作品「ジョジョの奇妙な冒険 Adventure6 - 報復の霧」(アニメーション制作 A.P.P.P.)におきまして、登場人物の一人が手にしている書物にイスラーム聖典である「コーラン」の「雷電章」の一部が描かれており、描写として適切でない部ウ分がありました。
ジョジョの奇妙な冒険」は時代を超えたファンタジー作品であり、その内容にイスラームムスリムを冒涜する意図はまったくありません。また、原作者は、漫画の中で「コーラン」を一切描いておりません。調査の結果、アニメーション化の過程で、舞台がアラビア語圏であったためアラビア語の文章を探していた現場スタッフが、それが「コーラン」の一部だとの認識を欠いたまま転写してしまったことが判明しました。
 また、その後の調査により、原作およびアニメーションにおいて、対決シーンにおけるモスクの描写についても不適切な表現があったことが分かりました。
 集英社、およびA.P.P.P.は、これらのシーンがムスリムの皆様に不快な思いをさせてしまったことに対し、心よりお詫びを申し上げます。我々は、今回の問題を真摯に受け止め、当該DVDアニメと、原作の一部の出荷を停止するとともに、他の部分の調査を進めてまいります。今後、このような事態を二度と起こさぬため、イスラームとその文化についての理解をより一層深めるべく、努力する所存です。
アニメーション「ジョジョの奇妙な冒険」における表現について (日本語)

この集英社の対応に対してはいくつもの疑問を感じるが、もっともバカバカしいのは「アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっている」というOVA版が現地のファンがアップしたと思われる海賊版だったことだ。以下、前述産経MSNの記事から。

 〇七年三月ごろからアラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通。視聴者の一人が、問題の場面の静止画をサイトに投稿し批判して以降、多数のサイトで書き込みが相次いだ。
 世界的な人気を誇る日本のアニメ産業界が異文化圏の宗教や習俗についてあまりに無知であることや、国境を越えるインターネットの隆盛で、思わぬ地域に視聴者層が拡大したことが、問題の背景にある。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/080522/gam0805221746001-n2.htm

いや、公式に現地でライセンス販売したソフトならともかく、だったらそもそも非難される謂れないでしょ、コレ。むしろ版元は著作権侵害に対する抗議しないと。
なお、この海賊版の件を報じているのは現在産経だけで、裏を取ったわけではないから産経の誤報の可能性もなくはないが、仮にこれが事実なら、報道していない他のメディアの姿勢は非常に無責任だと思う。
もちろんコーランの扱いや描写の不適切な部分への指摘に対しては(単にその指摘に対して)謝罪や釈明をおこなうべきだとは思うが、ライセンス問題への抗議もせず、相手に対する直接的な事情説明も試みずに国内出荷停止という対応は単に不可解だ。そもそもイスラムで問題になっているのがネット上で流通しているファンサブだというなら、国内のプロダクトの出荷を停止してもなんの解決にもならないのではないか。
さらにうんざりさせられるのがすでにこの事件がムハンマド風刺画事件と関連付けて語られはじめていることだ。以下は共同通信の記事から。

 デンマークなど欧州の新聞がイスラム教の預言者ムハンマドを題材とした風刺画を掲載したことを発端に、中東各地では2006年に大規模な抗議行動が続き、欧米キリスト教社会と中東イスラム教社会が「表現の自由」と「信仰の尊重」を主題に激論を戦わせた。
 「ジョジョ」にそうした哲学はない。原作コミックスの出版元で、アニメ化も主導した集英社(東京)は、イスラム批判の意図を否定し「コーランと知らず、使った」単純ミスと主張。だが作品中では、イスラムの戒律が厳格なサウジアラビアのホテルで登場人物が女性と飲酒したり、戦闘でモスク(礼拝所)が破壊されるなど、異文化に対する理解が欠けている面は否めない。
http://www.47news.jp/CN/200805/CN2008052201000448.html

まるで、デンマークの件が上等でそれに比べてジョジョの志が低いとでもいいたげな記述だが、「ムハンマド風刺画事件について」で述べたように実際にはアレはアレでバカバカしい話である。
ジョジョ集英社に「異文化に対する理解が欠けている」のは確かだろうが、そんなこといや抗議しているイスラム教徒だって異文化である日本のマンガについてなんぞろくすっぽ知りはしないのだから単にお互いさまだ。
それをあえて問題だというなら、問題はその無知が「お互いさま」でしかないことだろう。公式に抗議を受けたわけでもないのに国内出荷差し止めして問題になりそうな部分を修正しようという今回の集英社の対応は、まったくそこにある「無知」を解消しない。事実として私たち日本人の大半はアラビア語の文章を見てもどこからどこまでが一単語なのかの判別もつかないような無知蒙昧な輩なのだし、逆に大半のムスリムも日本語を見てもちんぷんかんぷんだろう、そんなことは当たり前なんだから泥縄でこそこそ誤魔化すような真似をせずに、キチンと外務省でも通して大衆娯楽としてのマンガのあり方や日本においてイスラム文化がほとんど理解もされていなければ興味も持たれていない現状を相手にちゃんと説明したらどうなのか。「マンガは日本が世界に誇る文化」だというのだから政府だってそのくらいのサポートはしてくれて然るべきだろう。

アメリカの警察や検察は暇だとしか思えない

永山さんと昼間さんの『マンガ論争勃発のサイト』「(財)日本ユニセフ協会インタビュー【第3回】アメリカ司法省「警察はそれほど暇じゃない」」から

−−単純所持禁止の問題についてはどうお考えでしょうか? 例えば警察による恣意的な運用が行われることの危機が指摘されています。

中井さん:そういった危惧が出てくること自体、児童ポルノが蔓延していることの裏返しではないでしょうか。
 アメリカ司法省に恣意的な運用の問題について尋ねたことがありますが「警察はそれほど暇じゃない」との回答でした。

で、その実際の検挙事例。
『FBI ― Federal Bureau of Investigation Homepage』のプレスリリースから。

2年前、ドワイト・ワーレイ(Dwight Whorley)はヴァージニア州リッチモンド職業安定所をオンラインでの求人情報を求めると称して訪れた。しかし、実際には彼は州のコンピュータを使い、児童ポルノ行為を写実的に描いた日本産「アニメ」をダウンロード、送信していた。
この行為は2003年制定の連邦猥褻法の規定により違法である。この法律は児童への性的搾取から子どもを守るためにつくられたもので児童に対する性的虐待を描いた絵画、マンガその他のあらゆる図像表現の制作、配布を連邦犯罪と認めるものである。
「PROTECTING OUR CHILDREN Virginia Man Sentenced in Landmark Obscenity Case」

この兄さん、わざわざ職安でエロ画像プリントアウトして、そのプリントアウトを見た職員の通報でFBIの内偵がはじまったらしいので、なんというか「間抜けな話」だとは思うのだが、その「間抜けな話」への求刑が懲役20年と罰金$7,400だ。
このプレスリリースでFBIは使用されたコンピュータから該当の日本産アニメのログを押収し、わざわざ言語学者に翻訳させて「じゅうぶんに写実的であり、描かれている通りのものであることに偽りはない」などと自慢げに保障させている。
その他にもこのコンピュータからはざくざくチャイルドポルノのログが出てきたらしいのだが(消せよ)、こういうケースを大真面目に「児童への性的虐待」として起訴するのが「暇」じゃないとはちょっと思えない。実際、自分がその担当捜査官だとしたらこんな仕事をやらされるのは「バカらしいなあ」と思っただろう。
この法律自体がのちに違憲判決を受けているのだが、そういう問題以前に単純所持、それも対象児童が存在しないフィクションの単純所持を取り締まれ、と主張する人々はそれが実際には「こういうこと」なんだ、という程度のことは考えているのだろうか。
個人的にはこんなことを法制化するのは警察の生活安全課のひとが気の毒だからやめたほうがいいと思うのだが。

もうひとつアメリカの例を挙げる。
現在アメリカではおよそ考えられないほどバカげた裁判が「児童保護」の名目の元で「現在進行形で」おこなわれている。
これが現在CBLDFがもっとも力を入れて反対キャンペーンをおこなっている「ゴードン・リー事件」だ。

2004年のハロウィーン、ゴードン・リー(Gordon Lee)のコミックショップ「レジェンド・オブ・ローマ(Legends, of Rome, GA)」はローマ市ダウンタウンでのハロウィーンイベントにフリーコミックスの配布で参加していた。このイベントで配布されたフリーコミックスの中にオルタナティブコミックス社が発行した2004年のフリーコミックブックデイ(訳注:アメリカのコミックショップが合同でおこなっている年一回参加出版社から提供される無料コミックブックを配布するイベント)用の『Alternative Comics』#2がたまたま紛れ込んでいた。このコミックブックはその日配布された数千冊のコミックブックのうちのたった一冊に過ぎない。それがたまたま未成年者の手に渡り、その両親が警察に不満を訴えた。
このコミックブックはオルタナティブ社のさまざまなコミックスからショートストーリーを集めたアンソロジーで、その中のひとつにニック・バートッツィ(Nick Bertozzi)が著名な画家ジョージ・ブラックとパブロ・ピカソの出会いを描いたグラフィックノベル『サロン(The Salon)』からのエキサープトが含まれていた。その8ページのストーリーのうち3ページに渡ってピカソはヌードで描かれている。正確にいえばそのストーリーのあいだ彼はずっとヌードである。ただ、このストーリーの中に性的な要素はない。
このコミックブックの誤配を知り、リーはその誤りを認め、公的な謝罪を何度も求められた。しかし、その謝罪は認められず、その後彼は逮捕された。
(「CBLDF- Articles: Gordon Lee: The Road To Trial」)

問題とされた『The Salon』はピカソやブラックらのアーティストグループ「サロン」を伝記的に描いたもので読書人からの批評的な評価はむしろ高く、題材的にいってもたとえば日本では「教育的」とされてもおかしくないものだ。
起訴理由は純粋に裸(それも野郎の)が描かれていたから。
まあ、Xメンだのタイタンズだのを期待してたに違いないもらった子どもが不満なのはわかるのだが、こんな「事件」が「児童への悪影響」を理由に起訴にまで発展するのは単に理解に苦しむ。しかも、「不当告訴」として起訴取り下げ判決が出てもなお細々した微罪をいいたてられ、三年以上続いているこの裁判はいまだ解決していない。
こういう事例を見るとアメリカの検察も「暇」だとしか思えない。

「児童保護」には国際協調が必要なのかもしれないが、本当にこういう価値観と協調したいのか、すべきなのか……その程度の疑義はなにがしかの主張をする前に持ったほうがよくはないのか。

なお児童ポルノ問題を含めアメリカにおける表現の自由憲法修正一条)に関しては「First Amendment Center」を参照されたい。

追記:
ン? リンクされてんな。しかし、オレは法律自体についてはほとんど言及してないんだが。
とりあえず2003年についてはこの辺ですか。
http://www.firstamendmentcenter.org/pdf/CRS.childporn1.pdf
http://www.firstamendmentcenter.org/pdf/CRS.childporn2.pdf
http://www.firstamendmentcenter.org/pdf/CRS.childporn.ob.3.pdf
http://www.firstamendmentcenter.org/pdf/CRS.childporn.ob.4.pdf

ブラジル人カートゥーニストによるガザ虐殺への抗議イメージ


http://latuff2.deviantart.com/
以下はアーティストからのこのイメージに関するコメント
オリジナルは
http://latuff2.deviantart.com/art/Spread-the-word-share-this-art-78975218

このイメージを見たすべてのひとにお願いします。イスラエルパレスチナ人に対する戦争犯罪を暴くため、どこでもいいのでこのイメージを広めてください。Tシャツ、ポスター、バナー、ミニコミ、新聞、雑誌への掲載、なんでもいいので使ってください。印刷用のハイレゾリューションデータはこちらにあります。
http://www.fileflyer.com/view/Ho03ZB7
http://israelsbirthday.files.wordpress.com/2008/03/gaza3.jpg
苦しんでいるすべてのパレスチナ人の名において感謝を。

どっかの国の新聞の「表現の自由についての実験」よりはるかに共感し得る目的だと思う。
なお、このイメージに関する背景事情はこちらを参照のこと。