コメント

韓流好きなリフレ派
「本来」どうあるべきか論=「原理論」というのは、東氏はより一段深い抽象といっているけれども、これは「べき論」としての価値規範の問題であって、とりあえず彼が二次的といっている実証的な話とはただ単に話題の次元が違うだけでどちらが深い浅いの問題ではないと思いますね。

その上で(深くても浅くても)この価値規範の問題は、一定の客観性がないかぎりは、どんなに議論しても共通の合意に到達しないので、とりあえずなんらかの客観性が必要条件として要求されます。わかりやすくいうと脳内価値規範ではだめで、みんなが語れるものであることがそこそこ必要だということ。

その条件をみたした上で、今度は基本的な合意が歪んだものにならないのにはどうすればいいのか? 僕の表のブログに書いたけれどもネットではハイエク的手法、ハーバーマス的手法、そしてサンスティーン的手法などが議論されていますが、東氏はネットでどのような価値規範の合意形成を議論しているかが、ひとつの焦点ですね。

ネットやおたくと共に生きていくみたいな話ではすまないわけです。

boxman
私が東氏の議論にある意味で納得もするし理解もできるけれど、まったく同意できないなと思っているのは、彼の最近の言説を見る限りでは彼は「価値規範の合意形成」自体が不要ではないかと主張しているように読めることをいっている点です。
たとえば彼は柄谷行人大塚英志対談というものすごくおもしろい(w 企画が実現している『新現実』Vol.05(太田出版刊)での大塚との対談で以下のようなことをいっています。

東*ぼくも個人的には啓蒙的にふるまっていると思います。しかし、そのことと、啓蒙が効果をもつと確信するかどうかはまったくべつの話です。市民であり、公民であることが正しい人間であり、それを説いていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ市民や公民を増やすことなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。それを簡単に言えば、脱社会的なひきこもりやオタクたちを、どうやって許容していくかという問題になる。
(「「公共性の工学化」は可能か: 東浩紀大塚英志」、『新現実』Vol.05、太田出版刊、95ページ)

これと似たような趣旨のことは『新潮』の鼎談でもいっているのですが、東は相手(この場合はひきこもりやオタク)との合意形成が不可能だという前提で考えている感じなんですね。説得的に振舞わないといってるわけだから。彼がその代替物として提示しているのが自分という「キャラ」で、議論誘導的に記号として消費される自分という「キャラ」とその一貫性には責任を持つといっている。これはある意味倫理的だとは思うし、プラグマティックかもしれない。その意味で納得も理解もできますが、個人的に同意はできない。
ただ、こうした東の態度を必ずしも否定できないなと思うのは、たとえば大塚や田中先生、あるいは山形さんみたいなあからさまに啓蒙的な「キャラ」が抑圧的に切り捨ててしまうような層にも彼の言葉は届くんですよ。そこで形成されるのはたぶん価値規範ではなく特定の「価値」への合意ではなく「同意」の形成なんだけれども、彼を求めている層はそれをこそ求めているわけだし、とりあえず彼はそれを肯定する。
その結果乱立する合意形成が不可能な複数の価値の調整は工学的な公共システムの整備で可能だ、みたいな辺りが私が理解する東氏の立場なのですが、まあ違ってるかもしれないので気が向いたら元発言追ってみてください。