『不謹慎な経済学』田中秀臣(講談社刊)

 以下はmixiで書いたレビューだが、田中先生ンとこで言及されてしまったので、向こうの意味がわかるようにこっちにも加筆修正のうえ移植。
 なんで田中先生からオレなんぞに献本が来るのかはこの辺を参照。

>ここから
 なぜか献本いただいた本。
 パリス・ヒルトン実刑とかワールドカップの経済効果、ニート天下りなどさまざまなニュースやネタを経済学的なモデルや学史的な論考によって説明づけていく一種のコラム集。非常にさくさく読めて普通におもしろい本である。一冊通して読むとちゃんと経済学者田中秀臣の立場なり、思想なりが明瞭にわかるようになっているが、まず軽妙洒脱でおもしろいコラム集になっているのが普通にうれしかった。最近こういう感じに気軽におもしろい本が減った気がする(つーかコラム集それ自体が減った)。

 ……と普通に第三者にお勧めするならこんな感じ、以下蛇足。

 個人的にこの本を読みながら考えていたのはじつはここしばらく考える機会が多かった最近の東浩紀との対比である。たとえば東は割りと最近のブログで以下のようなことをいっている。

そう。本当はぼくたちはこういうときこそ、著作権は「本来」どうあるべきか、という原理論を行うべきなのです。そして、結果として出てきた結論が実現可能かどうか、クリエイターが損をするか、消費者が損をするか、そんな話はとりあえず二次的なものとして横に措くべきなのです。その水準では、クリエイターのやる気が湧くかとか、コミケが潰れるかとか、そんな当事者トークはすべてどうでもいい。そういう抽象性が知性というものです。しかし、多くのひとは、そんな水準の議論がありうるというイメージすらできない。
(「著作権とか白田さんとか」、『東浩紀の渦状言論』、http://www.hirokiazuma.com/archives/000364.html

 これは08年になってはっきり出てきた東の最近の主張がかなり明瞭に読み取れる文章だと思うのだが、ここで東は「原理論」の再構築の必要性を説いている。それも現実の批判的な検討から自由な「抽象化された水準の原理論」の必要性を、である。
 これまでも東は「思想」に対して社会学(ここで東のいう「社会学」はおそらく経済学も含めた社会諸科学のことだろう)が優位性を持つかのような言論状況への違和感を表明してきており、彼がこのような結論に至り、それに伴ってたとえば『思想地図』のシンポで見られたようなかなり古典的な哲学教養の再構築、概念理解の啓蒙を行おうとするのは理解もできるし、ある意味でけっこうなことだと思うのだが、その動機の根本がここには比較的わかりやすいかたちで出ている。つまり、現実の批判的な検討は「とりあえず二次的なものとして横に措く」かたちでの抽象的な「原理論」をこそ学者は語るべきだ、それこそが学問なのだ、という主張である。
 こうした思考自体を私は否定しようとは思わないし、東の専門が哲学であることを考えれば彼の立場からすればもっともな発言だと思わなくもない。だが、一般論として抽象化された「原理論」を説くことこそが重要だ、というのであれば「それは違うんじゃないの?」と考えざるを得ない。端的にいうと現実の批判的な検討によって妥当性を検証されない「原理的」な理論モデルなんて単なるドグマであり、そんなものを押し付けられるのは個人としてははなはだ不快であり、社会的に見れば危険ですらあるからだ。
 そして、田中先生がこの本で一貫してやってるのは東が「とりあえず二次的なものとして横に措く」べきだとした経済学的理論モデルに対して「現実の批判的な検討によって妥当性を検証すること」なのだ。
 東と田中の違いはたとえば以下のような部分を前述した東の視点と比較してみればあきらかだろう。

 哲学者・町口哲生の『帝国の形而上学』(2004年、作品社)は、僕にとって“戦前期の左右渾然一体”をめぐる論点を考える上で有益だった。昭和研究会の中心で活躍し、マルクス主義の影響を色濃く受けていた哲学者の三木清が、当時の支那事変(日中戦争に)について「戦争の原因の究明という『現実』の検証よりも、歴史の流れという『理念』で支那事変を解釈することが重要だ」と明言していることに町口は注目している。
 つまり、「日本と中国の戦争状態がどんな理由で生じたかを検証するよりも、もっともらしい理念で戦争を脚色する方が有意義だ」と三木は考えていたわけである。これは、いま聞くと、かなり馬鹿げた話に思える。だが、三木がこの発言を行った当時の日本では、中国との戦争が混迷の度合いを深めていた一方で、「戦争を契機にした日中和解による東亜統一」という理念が論壇(新聞や雑誌)で謳われていた。大陸では泥沼のような戦闘が続き、死者が激増していたのにもかかわらず、である。日本の論壇では、まさに「現実」が忘れ去られていたのだ。
(「第7章 経済の安定は攻撃的ナショナリズムを和らげる」、『不謹慎な経済学』、田中秀臣講談社刊、94〜95ページ)

 ここでいう「理念」を東のいう「原理」と重ね合わせることはけっこう簡単なことだろう。
 たとえば先月先々月の『新潮』での高橋源一郎、和田和生との鼎談での発言に見られるように、ネットを中心とした若い世代の言説の承認者、先導者たることを自認し、その「キャラ」を引き受けるといっていっている東にとってこのような立場は自覚的かつ戦略的なものなのだろうし、その姿勢にはある種の敬意も覚えるが、やはりこれは同意しかねる考え方である。
 逆に田中のこの著作をオレがすばらしいなと思ったのはまさにこの部分で、田中は経済学的な方法論に対しては純粋な信頼を置きながらも、その適用については現実の批判的な検討を通しておこなうことを徹底している。また、3章、4章の「愛と経済学」、15章の「ワールドカップ、オリンピックの経済効果」に関する章ではちゃんとツールとしての経済学の限界についても述べられていて「誠実だなあ」と思わされた(失礼ながらこの点は正直「意外だ」とも思いました(w)。