「マンガ批評の新展開」のアングル

私見では件の『ユリイカ』「マンガ批評の新展開」で「表現論vs社会反映論」の図式が出来上がった背景にはこれと前後してネット上でおこなわれた『思想地図』1号掲載の伊藤論文「マンガのグローバリゼーション」(とそれを遡ること2年半前のユリイカの前マンガ批評特集)を巡る伊藤剛紙屋高雪の論争(のようなもの)がある。
以下に時系列順にその経緯を示す。
紙屋研究所での伊藤『テヅカ・イズ・デッド』
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』
大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ふたたび
伊藤による思想地図論文と紙屋への言及
『思想地図』vol.1
伊藤剛「マンガのグローバリゼーション」
「思想地図」に論文を書きました。
紙屋の返答? と伊藤の反応
「思想地図」創刊記念シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」を読んで
そりゃつれないよ、紙屋高雪さん
ユリイカと困惑する紙屋
『ユリイカ』「マンガ批評の新展開」
東浩紀伊藤剛「マンガの/と批評はどうあるべきか?」
「ユリイカ」東浩紀×伊藤剛「マンガの/と批評はどうあるべきか」
出てからの反応はともかく、今回の特集寄稿者のうち杉田俊介はどうだか知らないが、実際にこの件を話題にしている伊藤・東はもちろん伊藤に近い宮本大人もこの一連の経緯を事前に知っていたと思われる……というかオレも知っていた(どーでもいい話なので詳述しないが、わざわざこんなエントリ書いてるのもその辺が理由である)。つまり、特集刊行前に示された伊藤と紙屋の対立(のようなもの)が事前に漠としたかたちで関係者に共有されていたために「表現論」と「反映論」の対立が気分として前提され、「結果的に」特集全体に対立の構図をつくりあげたのだと思われるのだ。
つまり、これは必ずしも意図的にそうなったものではない。だからこそ先に「マンガ批評における表現論と社会反映論」というエントリで指摘したような間抜けなことにもなっているわけで、事象自体は「まぬけな感じだなあ」とでも思っていれば済む。
先にも述べたように問題はそのような構図を内包する言説の状況がほとんど検証されずに対立だけが言及されている点にある。