先行する言説状況の参照

個人的な感想を述べれば、今回のユリイカの特集に感じる不満もこの点にある。「マンガ批評の新展開」と銘打ちながら、そこにはマンガ批評言説の過去と現在の状況が明示的に示された全体の見取り図に当るテキストがないのである(この点は前回の特集「マンガ批評の最前線」に対しても同様の不満を持っている)。
好意的に解釈すれば巻頭鼎談における宮本大人のみが寄稿者の中ではこの点の必要性について自覚的であったように思える。おそらく彼は「それが巻頭に置かれること」をじゅうぶん意識して「前回の特集からの状況の変化」というトピックを語ったはずだからである。ただ、そこで語られた状況の整理があまりにもずさんだったというだけで(前回特集前に出版された中野晴行『マンガ産業論 』大塚英志大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか 』を「以後」の話として持ち出している辺りで本気で「宮本さんどうしたの?」と思った)、彼自身にはその種の状況論の必要性の意識はあったはずである。
この点でむしろ問題だと思うのは言説状況全般の傾向を「らしい」の一言で片付けている杉田の態度のほうだろう。他にも具体的な批判対象を明示せず「作品に優劣をつけるマンガ評論」の存在を批判している吉田アミの原稿など、過去蓄積されてきたマンガ批評言説の歴史を検証しないまま思い込みを語っている発言に対しては首を傾げざるを得ない。私は吉田の大島弓子須藤真澄を猫を介してつないで見る観点には感銘を受けたし、杉田の東や伊藤への批判は同意すらするが、書かれている内容と無関係にそういう適当なことをいわれては単に困るのである。
そもそも大雑把なマンガ批評言説史の流れを追うだけなら、先のエントリでも書いたように夏目房之介『マンガ学への挑戦―進化する批評地図』NTT出版刊、2004年)というものすごく便利なアンチョコ本がすでにあり、ネット上にも瓜生吉則「<マンガ論>の系譜学」というすぐれたテキストが存在する。それと少なくともこのふたつを読んでから読まないといろいろ問題があるとは思うが、マンガ批評がなにを「問題」として展開してきたかを論じた小山昌宏『戦後「日本マンガ」論争史 』現代書館、2007年)のような本もすでにある。「マンガ批評とは〜」といったことを語りたいのなら少なくともこの三つくらいは参照しないと単に無意味である。
これはまったく自慢ではないが、じつは私は『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』を「これはマンガ批評として書かざるを得ない」と決めるまでたいしてマンガ批評を読んでいなかった。書くのに必要だと思ったから2002年辺りから体系的にこの分野のテキストを読んだのであって、それまでは夏目さんの『手塚治虫はどこにいる』すら読んでいなかったのだ。
ある対象について価値判断を表明したいのであれば、そのための「必要条件」となる知識は必ず存在するのであり、その知識を取得する労を厭うなら、その人物はその問題について言及する資格が単にない。
大学生の頃に読書系サークルの読書会に「本を読まずに」やってきて他人の感想や意見だけ聞いて「その作者の意図はこういうものに違いない」と憶測のみで演説始めたヤツがいて呆れ返ったことがあるのだが、「必要条件」を満たさないならどんな言説も(いってることが正しかろうが間違ってようが)実質的にはこれと大差がない。