表現論の限界

で、肝心の伊藤剛紙屋高雪の話だが、私自身は双方に対して「それなりに」批判的である。
まず伊藤剛だが、伊藤個人に対する批判は身も蓋もないヤツは『ユリイカ』でも書いたし、より矮小なレベルでは本人に直接いってるのでここでは繰り返さない。むしろ私がここで指摘したいのは「表現論」と呼ばれる方法論(というより最近の評論一般というべきか)の限界についてである。
ただ、これについては伊藤自身が東浩紀との対談でかなりそのまんまなことをいっているのでまずそれを引用する。

伊藤 もちろん、「社会反映論」がいけないと言っているのではなくって。マンガ批評という文脈で問題にしたいのは「社会反映論対表現論」という二項対立に陥ってしまうのがまずいということです。これは夏目(房之介)さんの登場以来できた図式とも言えるんですが、つまり九二年の『手塚治虫はどこにいる』で、それまでのマンガ評論がマンガに反映された社会の諸問題を読み解くということをやっていたのに対し、マンガ自体に内在する表現の法則をいったん取り出すという作業を経由しないと、社会を論じるにしても間違いを冒してしまうのではないか、ということを言い、「表現論」という言葉を使い始めた。さらに夏目さん自身が、九七年の『マンガと「戦争」』という本で、戦後の日本マンガと戦争という問題系について考察しているんだけれども。ここで「表現論という枠組みではうまくいかなかった」といってしまっている。一方、夏目さん以降、「表現論」はマンガ言説における「専門の知」という位置をいちおう占めるようになった。それと並行して「表現論」は社会の現実から離れて表現のなかに沈潜していく態度であるととらえられがちになったんですね。そうした「表現論」への反発として、紙屋さんのような素朴反映論が歓迎されている部分はあると思うんですよ。
(「マンガの/と批評はどうあるべきか?」、東浩紀伊藤剛、『ユリイカ』2008年6月号、青土社刊、2008年、133P)

ここで伊藤が指摘するように「表現論」とはもともと「表現の法則をいったん取り出すという作業」のための方法論に対して与えられた呼称である。したがって夏目が『マンガと「戦争」』で直面した「表現論的な枠組み」の限界そのものは必然的なものだと考えるべきである。「戦後の日本マンガと戦争という問題系」を考察するなら「マンガ」の表現を分析するための方法や知識のみでは不十分であり、「戦後」や「戦争」を語るための知識(情報)や方法論がそれとは別に必要になる、ということだ。
私が「表現論」というよりおたく論とか動物化決断主義といった現在のサブカル批評全般の限界として想定しているのもこの夏目の直面した限界と同質なものである。つまり、マンガやアニメといったサブカルチャーの消費「のみ」を通して取得可能な知見は当然限定されており、いっぽうで「語ろうとする問題系」によってそれに対する価値判断のために必要条件として要求される知識は当然異なる。
表現規制問題に対して一定の価値判断をするためには社会的な規制の歴史や著作権法などに関する知識が必要だし、先日のジョジョの問題では多くのひとがムハンマド風刺画事件を引き合いに出していたが正直いってその多くはあの事件そのものがどういう事件だったのかを自分なりに把握してモノをいっているのかが疑問だった(finalventさんですら「欧米が起こした」と書いていたが、あの事件に限ってはアメリカに当事者性はほとんどない)。
東浩紀笠井潔との往復書簡集『動物化する世界の中で』において「日本のサブカルチャーには、それについて考えるだけでいつのまにか現代思想の理解までできてしまうような、そういう普遍的な構造が隠されているのだ」と書いていたが、これはじつは一種の言葉の詐術だ。東自身のどの著作を読んでも彼は「サブカルチャーについてだけ」考えてなどおらず、実際には自分が語ろうとする問題系ごとに必要だと思われる情報を適宜参照精査し、取捨選択するプロセスを経由して論考を進めている。「それについて考えるだけで」いつのまにかなにか他の物事が理解できてしまう「普遍的な構造」はそのような作業に先行して存在するものではありえない。東がサブカルチャー現代思想に共通する構造を見出し得たのは彼がその両方を知っていたからこそであり、この言明においてはあきらかにその点の因果関係が逆転している。
私が表現論を立場としてとらないのは一義的には主に対象としてきた海外マンガ(アメリカンコミックス)のまともな翻訳市場も存在しない国で表現レベルの比較を論じても受けいれてくれるマーケットも発言する意味もあるとは思えないからだが(だから伊藤さんや夏目さん相手に実物を見せつつ「ブライアン・ベンディスとよしながふみのコマ割りは似ている」とか「メビウスは線を引く官能性に引きずられるタイプのアーティストでシュイッテンは画面の構成から考えるタイプだと思う」みたいな話を「個人的に」することはある)、二義的な理由として「表現論」が「マンガ言説における「専門の知」」として認知されていることによって当然前提されなければならないこのような表現論固有の限界が隠蔽され、対象とする問題系の要求する必要条件を無視して「マンガ」と「普遍的な構造」を短絡的に結び付ける傾向が挙げられる。
伊藤は社会的な影響と作家や作品を無造作に結びつけるタイプの批評を「素朴な社会反映論」として批判的に語るが、逆の見方をすればこれはマンガ「のみ」から「普遍的な構造」を見出しうるのだという東が提示した詐術的な言明を無自覚に前提したマンガ「表現」を万能だと看做す感覚の産物だともいえる。
今回のユリイカに寄稿した拙文「「クールジャパン」と「MANGA」」は日本マンガ「ではないもの」との具体的な比較がなされずに主張される「日本マンガの固有性」を批判したものだが、表現レベルでも「マンガ」のみからでは「固有性」という「普遍的な構造」などは本来抽出しようがないはずなのである。