紙屋高雪への疑問

じつは私が紙屋に対して感じる違和感もほとんどこれと同じ点にある。

 夏目は漫画批評について、「単純な社会反映論」という謂いで社会反映論そのものを否定する身振りをとってきたが(最近はそうでもないが)、ぼくは、漫画批評には社会反映論というモメントがもっと前面に出るべきだと思うし、「私」自身が「社会的諸関係の総体」(マルクス)であるとすれば「ぼくら語り」という方法ももっと豊かにとりいれられるべきだと思う。
 理論の諸契機の一つとして有効であるがゆえに、過去の漫画批評の方法はどれも一度は一世を風靡した。めざすはその理論的方法の諸道具を必要に応じて組み合わせることである。
(「大塚英志大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』」、http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/japanimation.html

個人的には紙屋が提示した夏目や伊藤へのこのような批判にはけっこう同感するし、だから自分の本のあとがきでわざわざ「社会反映論」を標榜してみせた。
これは本来書くつもりのなかったことだが、仕方ないのではっきり書いてしまう。その私の本に対する紙屋の反応がはっきりいって珍妙だったのである。
紙屋はまずなぜか「自著の宣伝ページ」において私の本について以下のように言及している。

 ぼくはこのことに加えて、漫画「で」語る快楽、というものもあるのではないかと思います。つまり、漫画というものが人生観とか政治観とか恋愛観とか労働観とかそういうテーマの表現だととらえて、漫画を道具にして人生や政治や恋愛や労働を語るという快楽です。
(中略)
 そういえば小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』は自ら「本書は……『社会反映論』の立場を意図的にとっている」とのべていますが、小田切の本は膨大な実証の上に成り立っている「研究」であり、ぼくがここで述べている「快楽」とはまた少し方向が違うともいえます。
(「本を出しました『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』」、http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/OTAKUCOMMUNIST.html

この記述に私が首を傾げたのはまず自分の本で「膨大な実証」などした覚えがなかったからだ。私があの本で主にやっているのは欧米の研究や報道、ファンや作家の発言を具体的に提示して、アメリカのコミックス市場や文化を浮かび上がらせることであり「例証」ならそれこそ膨大にやっているが、統計データをとったり、社会調査をしたりという「実証」は皆無ではないがほとんどやっていない(だいたい面倒なので他から引用できればそんなことはあんまりやりたくもない)。
まあ、その辺は言葉に対する感覚の問題もあるから「例証」と「実証」を一緒くたに「実証」と呼んでいるのかとも思うのだが、「膨大な実証の上に成り立っている「研究」」だから自分とはやっていることが違う、というこの言明はなんだか特にケンカの売り買いもしてないのにいきなり相手が逃げ腰になってるみたいで不思議な気はした。
別に紙屋が重視する「漫画「で」語る快楽」を主張するために私の本の話をする必要など1ミリグラムもないのだ。これまで私は紙屋に言及した覚えがないので特に彼の主張に反対したわけでもないし、なんでわざわざ引き合いに出されるのかもわからない。でまあ、訳はわからないけどまともに論じてくれるつもりはないらしいと思っていたら、今度は「現在の手塚治虫観を論じた文章」でなぜか批判的に言及された。

『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』を書いた小田切博は、その著書のなかでもっと鮮明にこの分裂について語っている。

 戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌 「私個人のなかでの手塚は明るい戦後民主主義の体現者的な部分とどこか薄暗いドロドロした情念を描く作品の印象がまったく関連しあわないで別々に存在しているようなところがある」(小田切『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』p.201)

 小田切は、同書のなかで手塚の「史上最大のロボット」(『鉄腕アトム』の1エピソード)をリメイクした浦沢直樹の『PLUTO』が「反戦」のメッセージ色を強めているのではないかと考えこうのべる。

「そこには『反戦』といった戦後民主主義的なテーマをマンガを通して現代的に再生してみせることがいま『手塚マンガ』に対し応えることなのだ、という浦沢の主張が込められているのかもしれないと思う。だが、私はそもそも手塚治虫という作家自身がいまそんな風に『反戦』を描くことを選択するような作家であったのか、という点に対してこそ大きな疑問を持つ」(小田切前掲書p.200)

 『PLUTO』をふくめたいくつかの日本の漫画が、「ひどく短絡的な戦後民主主義的『反戦』メッセージ」を「代入」していることに、小田切は批判的な見解をのべているのだ。

 小田切は、911事件を契機にアメリカのコミックスファンたちが「一夜にしてナショナリストにな」り(小田切前掲書p.150)、「現実」に漫画的「空想」が浸食されていく様子を描いている。
 小田切は「補遺としての終章」の「マンガが守るべきもの」という節で「はっきりいえいば私はマンガとはまず単なる娯楽であり、逃避のためのささやかな消費財であることにこそその本質があると考えている」「同時多発テロとその後の混乱によってひとびとの生活からごく当たり前な『日常』そのものが奪われたとき、けっきょくマンガを読み、楽しむというそのささやかな娯楽としての性格こそが一旦は奪われた『日常』を回復するよすがになってくれたのではないか」(小田切前掲書p.291〜292)と結論づけている。

 この本の流れのなかで、上記のような手塚理解を考えるとき、小田切においては、手塚像は分裂しその戦後民主主義的部分というのは結局漫画表現として批判されるべきであるものだとしているように読める。911事件後にアメリカの漫画家たちが不用意に現実の浸食を許してしまったのと似た形になっているのではないか、と。
(「『手塚治虫傑作選』『平和の探求 手塚治虫の原点』ほか」、http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/sengominsyusyugi-tezuka.html

コレを読んだときに思ったのは伊藤の批判に対する紙屋の反応とまったく同じで「困ったな」というだけのものである。なにしろ私は紙屋がいうような「手塚像は分裂しその戦後民主主義的部分というのは結局漫画表現として批判されるべきであるものだ」などということはまったく書いていない。
私があの本で手塚について触れた部分は3章と7章に限られており、紙屋が私の手塚観の結論として引っ張ってきている終章には手塚のテの字も出てこないうえ、戦後民主主義の話もまったくしていない。だいたい「911」がマンガに与えた影響を論じた本の結論部分で1989年に亡くなっているひとを引き合いに出すわけがないではないか。
では、なぜそうした倒錯したつぎはぎがなされるかといえば、紙屋のしている引用では「つまり、手塚はとにかく「自分という存在」によってマンガすべてを肯定しようとしたのではないか? 自ら率先して戦後民主主義的なヒューマニストとして振舞うことで戦争協力した作家の存在も含めて、マンガのなにもかもを戦争責任から「免罪」し、彼はマンガを「解放」しようとしていたのではなかったか……私の中の分裂した手塚像はこう考えることで不思議と重なっていくような気もするのだ。」と自分の中の「分裂」を「統合」することによって手塚への評価を結論付けた7章での言及の後半部分が丸々読み落とされているからだ。私は手塚の「戦後民主主義的態度」への評価もこの読み落とされた箇所のなかで述べており「戦後民主主義的部分というのは結局漫画表現として批判されるべきである」なんてことを主張した事実はまったくない。浦沢に対する評価に関しても紙屋は私が『二十世紀少年』との関連の中で『PLUTO』の「反戦」を批判している文脈を完全に無視しており、他に誤引用などもあって正直これはフェアな批判とはまったくいえないと思う。
そもそもこの手塚についての文章での言及も文章全体の文意からすれば、私を手塚の分裂を語っている論者の一典型として最初の引用だけひけば紙屋の主張は成立する。なぜわざわざアンフェアな切り貼り引用までして私への批判を挿入しなければならないのか理解しかねる。
ここまで書いてきたように私は社会とマンガの関係を論じるのであれば、議論の文脈に応じて必要な情報や知識があり、そのような必要条件を満たさなければ問題に対する価値判断自体が不可能だと考えている。これに対して紙屋は「社会反映論」が「漫画を道具にして人生や政治や恋愛や労働を語る」ことだというのだが、この一連の反応を見るとひょっとするとこの彼の「社会反映論」観からすると私の考え方は許容しがたいのかもしれないとも思う。
しかし、対象とする問題系に対しなんら調べもせずに自己の快楽原則に任せて語ればそこに社会が反映されるというのでは、記述として「表現」に言及しないだけで紙屋もまた「マンガ」のみから「人生や政治や恋愛や労働」を語ることのできる「普遍的な構造」の存在を夢見ていることになりはしないか?