価値判断の留保

私はここまでマンガとそれ以外のもの、それは戦争でも、アメコミでも、表現規制でもなんでもいいが、その間の関係性を論じる場合に当然問題系の設定に応じて必要とされる知識、情報があるはずだと繰り返し述べてきた。だが、そのような必要条件として求められる知識はあらかじめ決定付けられているものではあり得ない。
むしろ、ある対象に対する価値判断をおこなうために必要な情報がなんであるかを決定付けるためにこそその問題に対して調べ、検証し、考えなければならないのであって、そのような必要条件が自分のなかで決定付けられるまでは対象に対する価値判断自体は留保しておくべきである。
現在のマンガなどのサブカル批評全体で、このような価値判断の留保をおこなわず、「あらかじめ存在している」自分の価値判断を正当化するために議論を組み立てる傾向が強いように思う。それがパッケージ上「表現論」でも「反映論」でも、私はそのような言説すべてに賛成しない。