これはどういう事件なのか

 まず事件自体の経緯を追った「Cartoons of Mass Destruction(破滅をもたらしたマンガ)」の記述と当時の新聞報道などからカートゥーンを掲載したユランド・ポステン紙の動向を中心に事件の初期段階の簡単な概略をまとめる。すでに日本語でも同種のテキストは多数存在するため、興味のあるひとはまず検索するなりして自分で調べることを強く勧める。

 この記事では事件の発端をユランズ・ポステン紙(Jyllands-Posten、ユトランド新聞)の文化部記者フレミング・ローズがイスラム教の宗教的タブーにまつわる自主規制が言論の自由(Freedom of Speech)に抵触するのではないかとの疑問を持った時点に置いている。ここで引かれているのは『Time』06年2月13日号掲載の記事「When Cultures Collide」におけるローズのコメントである。

 9月半ば、ひとりのデンマーク人作家が預言者ムハンマドに関する本*1イラストレーターを探すのに苦労していると公表した。どうやらイラストレーターが匿名での出版を要求しているということらしい。これまでにもソマリア系オランダ人政治家でイスラムに批判的なアヤーン・ヒルシ・アリによる本の翻訳者達もまた匿名での出版を要求していた。ロンドンのテイト美術館では「God Is Great」と題されたインスタレーションが撤去された。これはタルムード、コーラン、バイブルをガラスの中に埋め込んだものである。私にとってはこうした言論、表現の自由に関する自主規制が40人のデンマーク人マンガ家(Danish Cartoonists)に彼らの考えるムハンマドを表現してくれと依頼した動機のすべてだ。
結果として描かれたカートゥーンのいくつかが風刺画であるのはそれがデンマークにおける伝統であるからに過ぎない。私たちは女王を笑うし、政治家を笑う、多かれ少なかれすべてのものを笑いものにする。もちろん私たちはこんな風なリアクションを予想してはいなかった、イスラムのひとびとが侮辱されたと感じるのなら謝罪する。しかしこの企画はもともとイスラム教徒に向けたものではないのだ。私が求めたのはこの種の自主規制の問題を議論の俎上に乗せることだ。
(「When Cultures Collide」、Flemming Rose、『Time』Feb.13.2006、http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1156614,00.html

 さて、このようなローズの主張がもたらした結果をジャーナルの執筆者達は(おそらくは多少の皮肉を込めて)以下のようにまとめている。

 この自主規制は公的な検閲同様、言論表現の自由に対する侵害だとの信念からローズは「このイスラムの問題に関しても他のケースでもそうだったようにひとびとが自主規制に屈服してしまうのかを検証する」ことを求めた。*2ローズが求めた議論ははじまるとすぐに彼も知っていたイスラムを取り巻く脅迫的な抗議の風潮に巻き込まれた。ローズの呼びかけに応じ、イスラムの尊敬される預言者を描いた12人のカートゥーニストはどういうつもりだったにせよ、イスラムのひとびとに火をつける以上のことはできなかった。
(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、10P)

 で、この「表現の自由に関するテスト」が世に出たあと当然最初に反応したのはデンマーク国内のイスラム教徒だった。このジャーナルの記事によれば12枚のカートゥーンがユランズ・ポステン紙に掲載された2005年9月30日から2週間後の10月14日コペンハーゲンで「3500人のムスリム*3がユランズ・ポステン紙のカートゥーン掲載に対し「平和的なデモ」をおこなった。
ここでおもしろいのはこのデモにおける抗議者たちの主張である。いまのところ元ネタを見つけられていないので多少疑問は残るのだが、ジャーナルによれば彼らの主張は以下のようなものだったという。

抗議者達はそこに人種差別ではないにしろゼノフォビア的なものを見て反応した、彼らはデンマークイスラム教徒を不快にさせる表現とそれがイスラム教とテロ行為を同一視していることに謝罪を求めた。新聞社はこの要求をつっぱねた。
(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、11P)

 これだけ見ると少なくともこのデモに集まったひとたちの要求自体は妥当なものだとしか思えない。タイムラインを見るとこの時点で新聞社や作家のところに抗議や脅迫状なんかもガンガン来ていたらしいが、この時点でこの程度の要求を(それも表現の自由を理由として)はねつけるのはどう考えても事態を悪化させるだけである。実際この三日後にエジプトのいくつかの新聞、雑誌に問題のカートゥーンが転載されると、10月20日*4にはイスラム教国11カ国のデンマーク駐在大使から連名でデンマーク政府に対し正式な抗議文書が送られ、以後この問題は拡大の一途を辿る。
当然のようにこの抗議に対してデンマーク政府は「ンなこといわれてもメディアにゃ報道の自由ってもんがあるんだし、わしらも言論弾圧したとかいわれたくねーよ」とかそういう類の返答を返しているのだが(実際になんといわれたかはここ参照)、それでイスラム諸国の腹の虫が収まるわけもない。
 先のデモの件も含め、気になったのでちょっと他の新聞報道も見てみたのだが、2005年末くらいまでのユランズ・ポステン紙の対応は妙に強気である。以下にジャーナルでの記述を引くが、これを見るとこの事件がここまで大きな問題になった原因の一端はこの初期の時点での彼らの対応のまずさにあったとしか思えない。

 新聞社側は当初同社の長年のポリシーだという言葉を引いて謝罪を拒否していた。「私たちはこれらの絵が西側世界で広く求められている自主検閲を問題化し絵解きしたものだと指摘しなければならない。私たちが話し、書き、写真を撮り、絵を描く権利は法の枠内において認められなければならない−−無条件に!」編集のカルステン・ユストはさらにこうつけ加えている「私たちは、民主主義の世界に暮らしている。これが私たちが自分が望むすべてのジャーナリスティックな手法を使うことができる理由だ。風刺はこの国では許された手法だ、あなたは風刺マンガを描くことができる。宗教はこの種の表現に対するいかなる障害をも設けるべきではない。このことは私たちがイスラムを侮辱したいと考えているということを意味しない。」彼はこう結論付ける「私たちが謝罪するとすれば、我々の前の世代が勝ち取ってきた言論の自由に反したときだ」*5
(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、12P)

 こうした大騒ぎの中、カートゥーンを描いたマンガ家たちに対して殺害予告や脅迫が相次ぎ、彼らは政府に保護を求め、デンマーク政府もこうした脅迫行為に対して禁止を布告。いっぽうでデンマーク国内のムスリム団体も10月27日にカートゥーンの掲載を理由にユランズ・ポステン紙を刑事告発。11月19日にはデンマークムスリム団体のひとつがカートゥーン問題を訴えるために中東に赴くとアナウンス。実際に彼らは12月に中東に赴き、捏造や勘違いによるものが含まれていたという煽る気満々のマンガによるデンマークでのイスラム差別を訴える45ページの文書「デンマークの人種差別とイスラム恐怖症(Danish racism and Islamphobia)」を学者やイスラム教団に提出。
いっぽうでデンマーク国内ではイスラム教徒による抗議行動への反発から逆にムスリム組織への脅迫、より差別的な図画を載せる雑誌が出てくるなど、いち新聞社による「表現の自由のテスト」のために国内の宗教対立、民族対立が激化していく、という笑えない事態が現出していく。
もっと笑えないのは12月6日のイスラム諸国会議の席上で前述の文書が各国代表の手に渡り、問題が完全に外交問題化したことである。さらに年が明け1月になるとイスラム教における年に一度のメッカへの巡礼の季節となり、世界中から集まったムスリムがメッカで事件を知って怒り狂った状態でまた世界中に散ることになった。
1月26日にはサウジがついで29日にはシリアがデンマークから大使を召還。こうした動きの中、いちおう水面下で国内のムスリム団体と折衝を続けていたユランズ・ポステン紙は1月30日、ようやく謝罪文を公表する。

1月30日武装集団がパレスチナガザ地区のEU事務所を謝罪を求めて包囲したまさにその日、ユランズ・ポステン紙はウェブサイトにイスラム教徒に対する攻撃的な姿勢を謝罪するコメントを公表した、しかしここでも彼らはカートゥーンを掲載したこと自体には正当性を主張している。
 ほとんどのムスリムにとってこの謝罪は不十分であり、遅すぎた。なんといってもすでに第二ラウンドがはじまってしまっていたのだ。フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペイン、スイスの新聞がユランズ・ポステン紙に同調し、2月1日、カートゥーンをいっせいに掲載したのだ。
(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、14P)

 こうして事件はデンマーク国内の宗教、民族対立の問題からヨーロッパ対イスラムというさらに巨大な対立へと拡大した。このヨーロッパの参加についてはフランスでの事情を詳細に論じたこちらの記事が非常に参考になる。

*1:ここでローズが触れている「ムハンマドに関する本」とはカーレ・ブルートゲン(Ka*re Bluitgen)作のムハンマドの子供向け伝記絵本『コーラン預言者ムハンマドの生涯(Koranen og profeten Muhammeds liv)』である。英語版Wikipediaの記述によれば彼のイラストレーター探しの苦労話を枕に報復怖さにイスラム批判を出来なくなっているデンマーク言論界の問題点を指摘する新聞記事(「Dyb angst for kritik af islam(イスラム批判への深い懸念)」)が2005年9月17日付のポリティケン(Politiken)紙に掲載されており、こうしたマスメディアにおける自主規制に対する問題意識がこの問題の背景にあるとされる。なお、日本語版ウィキペディアには「ムスリム移民が多く住むデンマークにおいて、異宗教間の相互理解を深める為にムハンマドの生涯を扱う児童向けの本を制作しようとする動きがあった。」との記述があるが、この経緯に関してはいまのところ英語では類似の記述を見つけらていない。

*2:訳注:この箇所の原文は「was to examine whether people would succumb to self-censorship, as we have seen in other cases when it comes to Muslim issues」なのだが、『Time』のローズのコメントにはこの箇所が存在しなかった。このため「初出書けや」と毒づきながら検索を続けた結果、どうやら『NC Times』の2005年12月9日付けの記事「Muslim reaction to Danish cartoons of Prophet Muhammad remind some of Rushdie's experience 」(該当箇所がわかりやすいようにGoogleのキャッシュをリンク)辺りが大元らしいとわかった。しかし、これを読むとこの発言、じつはローズのものではない。記事中にちゃんとユランズ・ポステン紙の編集長カルステン・ユスト(Carsten Juste)の言葉だと書いてある。この記事に限らずブログなどでこれをローズの発言としているものがけっこうあるようなのだが、どうも「他のメディアでこの発言をこの件に関するユランズ・ポステン紙の公式見解として(ソース、発言者表記なしで)紹介」、「スポークスマン的に記事の担当者であるローズが発言を開始」、「結果的にローズの発言と誤認するひとが多発」、という伝言ゲームが起こったようだ。

*3:英語版Wikipediaの「Timeline of the Jyllands-Posten Muhammad cartoons controversy」では「5000人以上」となっている。

*4:英語版Wikipediaの「Timeline of the Jyllands-Posten Muhammad cartoons controversy」では10月19日。

*5:これらのユストの発言の正確な初出は特定できなかったが、05年10月末から流布しているため、コペンハーゲンでのデモやそれに伴うムスリム団体からの批判に対するコメントではないかと思われる。