イスラムの主張

 次に「Muslims on the Danish Dozen(風刺画とムスリム)」の記述を中心にイスラム側の主張を見てみる。この記事は「Danes」のほうと違い、ライターが一本の記事にまとめたものではなく発言者のコメントを並べたかたちのものである。
語られていることはおもしろいのだが、特にコミックス関係のひとが選ばれているわけでもないのでこちらはいまいちどういう基準の人選なのかわからない。
まずシアトル在住のヨルダン人画家サマー・クルディ(Samer Kurdi)のコメント。

 私が怒りを感じるのはカートゥーン預言者の姿を描いているからでもなければ、彼を(ひいてはすべてのイスラム教徒を)テロリスト扱いしたからでもありません。私にとっての問題は彼らがあのカートゥーンを掲載することが言論の自由を守ることなのだと取り繕ってみせていることです。たしかに多くの異なる考え方の集団のあいだで言論や出版によって誰かを攻撃したり傷つけたりすることはいくらでもできます。しかし、本当に言論の自由のデモンストレーションをしたいなら、自分たちの新聞社や政府にケンカ売ってみせるべきでしょう。
ひとりのイスラム教徒としては私はあのカートゥーンがさまざまなメディアに掲載されるのを見るたびにそこには「我々はイスラムを侮辱する、単なる泡沫メディアとしてではなく、「尊敬すべき」メインストリームメディアがやってるように」というメッセージが込められてるように思えて仕方がありません。あのカートゥーンを掲載することが唐突に二流新聞が言論の自由の最前線に立っていることを保障する格安チケットだか魔法の薬だかのようになってしまった。
(「Muslims on the Danish Dozen」、Houria Kerdioni構成、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、16P)

 このクルディのコメントがおもしろいのは彼の怒りが向けられているのがカートゥーン偶像崇拝の禁止の戒律を破っている部分にも、イスラムを攻撃している部分にすらなく、その行為を「表現の自由」を理由に正統化している部分に(のみ)あることだ。
この問題が語られる際に偶像崇拝の禁止は必ず言及されるポイントであり、実際このジャーナルの記事でもメインアーティクルのほうでけっこうな文字数で解説されているのだが、このエントリではここまであえてこの点には触れてこなかった。というのは、少なくとも問題が拡大してヨーロッパ対イスラムの壮大な泥の投げあいになる以前、デンマーク国内の問題としてみた場合はこれはあまり関係ない話ではないかと思ったからだ。
というのは中東のイスラム教国ならともかくヨーロッパやアメリカに住むイスラム教徒がこの問題をそれほど厳格に考えているとは考えづらいからだ。なぜならイスラム教における偶像崇拝の禁止とはすべての預言者の偶像を描くことを禁ずるものであってその中にはモーゼやイエスも当然含まれている。だからキリストの伝記映画などはイスラム教国では公開できないし、逆にいえば日常的にキリストやモーゼの画像が存在しているヨーロッパやアメリカに暮らすイスラム教徒が偶像崇拝の禁止をそれほど原理主義的に捉えているとは考えづらい。
実際この記事においても「ムハンマドの肖像を描いた」こと自体を問題視している人物は皆無であり*1、先にも触れた『Time』の記事「When Cultures Collide」ではオックスフォード大学にフェローとして留学中のスイス人ムスリム学者、タリク・ラマダン(Tariq Ramadan)によって以下のような言明がなされてすらいる。

 この件に関しては双方が大げさにいっている。厳密にいえば預言者の肖像が禁じられているのは確かだが、ムスリムだって世俗の西欧世界で面白おかしく暮すためにはそれが古い伝統だってことくらい理解せざるを得ない。感情的な反発は禁物だ。もうこれは議論ではなく、力による紛争になってしまっている。私たちはまず落ち着くべきだ。私たちはひとびとが法によって言論の自由を妨げられるのを望まない。だが同時に私たちは他のひとびとと対するときに礼節をもってする知恵を忘れるべきではない。民主主義とは単なる法的な枠組みのことではなく、互いを尊重することだ。
(「When Cultures Collide」、Tariq Ramadan、『Time』Feb.13.2006、http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1156614,00.html

 もちろんこうした視点はおそらくは欧米で暮らす(それもどちらかといえば社会階層の高い)ムスリム特有の視点であり、2006年2月以降に中東でデモに参加し「デンマークに死を!」と叫んでいたひとびとはまた異なった視点を持つだろうと思う。ただ、そもそも本来そこは関係なかったのだという点は確認しておくべきだ*2
 先に事件の経緯でも確認したように少なくとも初期のイスラムの抗議行動における主張は件のカートゥーンの内容が「自分たちの宗教を攻撃し、テロリストとイスラム教徒を同一視している」であった点を問題にしていたのであって、イスラム教独特の宗教的理由から反発しているわけではない。これは単純にいえば「名誉毀損」の訴えであって誰にでも理解可能な話である。
 たとえばジャーナルの記事ではフランスの航空技術者、ハフィド・ボウザウィ(Hafid Bouzazui)が「このカートゥーンによってすでにメジャーメディアによって潜在的なテロリスト扱いされ、抑圧されていたムスリムをいっそう傷つけた」といい『Time』の記事ではクエートオイルのエクゼクティブが「宗教的冒涜ではなく、人種差別だ」ともっとはっきりいっている。
このサミア・アル・デュエイ(Samia Al-Duaij)というひとの発言はヨーロッパのムスリムの持つ不満がかなりわかりやすく出たものだと思われるため以下に引用する。

 あのマンガが宗教的冒涜なのではなく、彼らが人種差別主義者だというだけの話だと思う。私はイスラムをネタにした妙なジョークでも笑えるリベラルなクエート人女性だが、あのカートゥーンには完全に頭にキた、なぜなら私はどういう連中がああいうものをつくりだすのか知っているからだ。私はデンマークでは高い教育を受け、いい職についていたけれど、アラブ人だというだけでしょっちゅう侮蔑的なコメントにさらされた。私が会ったデンマークの独身第二世代ムスリムたちはみんなあそこから逃げ出したがってた。なぜって、彼らは口々にいってた「オレたち(私たち)はここで育った。なのに歓迎されない。職もない」たぶんナチ政権下のユダヤ人や50年代のアメリカでの黒人もこんな風に感じてたんだと思う。これは単に不快だ。私は全然信心深いほうじゃないけど。
(「When Cultures Collide」、Samia Al-Duaij、『Time』Feb.13.2006、http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1156614,00.html

 要するにこれがデンマーク、引いてはヨーロッパにおけるイスラム系移民の問題である。グローバルに考えるから、中東情勢やテロ問題が絡んでめんどくさくなるのであってデンマークやEUというレベルに限定すればこれは国内の少数派差別、民族差別問題以外のものではない。それを「宗教」を理由に異文化対立に拡大したのはイスラム側だが、ではそのように問題が大きくなって過激派ではないヨーロッパの一般的なムスリム達がどうなったかといえば、当然便乗して鬱憤晴らしをした人間もいたろうが、こうした差別的な状況に関していえばけっきょく事態をより悪化させただけであり、まじめな人間であるほどこのすべてが「迷惑だ」という以外にないだろう。
たとえばフランスの人材派遣会社で働くヒンド・ダイバ(Hinde Dhiba)の場合はこうだ。

 私はムスリムと称するある種のひとびとが罪もないデンマークのひとびとに暴力的な報復をおこなうのを認められない。それはカートゥーン同様にムスリムに汚名を着せる行為だ。暴力を伴ったイスラムのある層のひとびとの反応は極端だが、政治家やメディアの反応も極端だ。メディアやカートゥーンはもっと繊細に使われるべきだろう。彼らは決してこの宗教のいい部分を語らない、イスラムには多くのポジティブな側面がある、たとえばスーフィズムとか……しかし彼らは常に最悪の部分だけを語る。そうしてフランスのイスラム教徒には悪いイメージがつき、反イスラム的な気分が蔓延する。フランスにはイスラムへの恐怖があり、しかもそれは国内どころかヨーロッパ第二の宗教なのだ。
 私たちはあらゆるひとからこのことについて尋ねられるのにうんざりしている。もう一度私たちも自分たち自身について説明しなければならないが、いい加減そこにはあまりにも多くのイスラムが存在することは理解されてもいい時期だ。イスラムはひとつかもしれないが、そこには多くの人間がいて、異なったレベルの理解をし、異なった経験をしてきている。
(「Muslims on the Danish Dozen」、Houria Kerdioni構成、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、16P)

 そりゃうんざりもするだろう。

*1:このジャーナルの記事にはシアトルのイスラム教会の指導者のコメントもあるのだが、彼もカートゥーンそのものは「子どもっぽい感情的な爆発」と片付けている

*2:この点は問題のきっかけとなったカーレ・ブルートゲンの『Koranen og profeten Muhammeds liv』がちゃんと出版されていることだけみてもこのことはあきらかではないかと思う。