これは「表現の自由」の問題なのか?

 ジャーナルの記事自体は以降も事細かに経緯を追う記述が続くのだが、いい加減ヤになっているのでまとめに入る。
私が以上の経緯を提示した上で考えてもらいたいのはこれは本当に「表現の自由」を巡る事件なのか? という点である。2006年2月以降、問題がヨーロッパ対イスラムの泥の投げあいになって以降はたしかにイスラムの「宗教」に対するヨーロッパの「表現の自由」という構図になるのだろうが、事件の初期段階、国内の民族差別的風潮を助長するような表現への謝罪を求めたデンマーク国内のムスリムに対し、一貫して謝罪を拒否し「これは表現の自由を検証するテストだ」という主張だけを続けたユランズ・ポステン紙の態度はどう考えても妙である。これでは要求に対する返答にまったくなっていない。そもそもユランズ・ポステン紙が求めた「イスラムへの自主規制の見直し」はムスリム団体が自主規制を求めたわけではない以上、国内のムスリム団体とは単に無関係であり、実際ユランズ・ポステン紙自身が「これはイスラムに向けたものではない」といっている。
たとえば大学の社会調査の実習で調査対象と無関係なひとに迷惑をかけた事例があったとして「これは大学の調査実習だから謝りません」という主張が通るだろうか。攻撃を意図しているのではないなら余計謝罪すべきだし、だいたいけっきょくこの点に関しては実際謝罪もしているのだからとっとと謝罪しておけばムダに事が大きくなることもなかったのだ。イスラム側は最初から彼らの自主規制に対する問題提起に関しては特にコメントもしていないので、彼らは誰からも求められていない「表現の自由」の問題を叫んで事態を悪化させただけだということになる。
 これは「表現と規制」を巡る事件などではない。むしろこれは国内の宗教、民族差別的状況を無視して抽象化された「表現の自由」を夢想したために「問題提起」と称してヘイトスピーチ的表現を公表しながら、それが「ヘイトスピーチ」である自覚すら抱いていなかった、というきわめて情けない事例なのではないか。
 ユランズ・ポステン紙が最初から自覚的にカートゥーンを使ったヘイトスピーチをおこなおうとしたならムスリムの抗議に対しもっと攻撃的な対応をしただろうし、このため逆にヨーロッパメディアの共感も得られなかったかもしれない。だが、そのことが結果的には事件を徒に大きくし、問題を原理主義的宗教と原理主義表現の自由を巡る国際的な対立のレベルまで巨大化させてしまったのではないかとすら思う。

 私は今回詳細に経緯を追う前から「これは要するに日本における『嫌韓流』とか中国、韓国の反日マンガのようなものなのだろう」というかなり手前勝手な理解をしたうえで(基本的に)日本人には関係ない問題だ、と考えていた。そして、ある程度欧米の情報を追ったうえで実際あんまり関係ない問題だと思う。
つまり、これは飽くまでもEUにおけるイスラム移民問題を巡るEU内の問題(というかそもそもはデンマーク一国の国内問題)であり、そのような具体的な「問題」を捨象して、過度に抽象化した「表現の自由」や「イスラム」そして「マンガ」を巡る問題として図式化して語るのは大変危険であり、場合によってはひどく迷惑なことだ、ということをこそこの事件はよくあらわしているように思うのだ。