海外のコミックス研究を知る必要性

今夏フランスのコミックス研究者、ティエリ・グルンステンの著書『線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート』(古永真一訳、人文書院刊)の翻訳が発売され、続いて近い将来同じ著者によるより包括的な研究書『マンガのシステム』の翻訳も刊行が予定されている。まだかすかな兆しのようなものに過ぎないが、これはたいへん喜ばしいことである。
私はこれまでこのような海外におけるコミックス研究や批評の水位や情報、あるいは海外のコミックスそのものを無視して成り立ってきた日本のマンガ研究・批評の現状がおかしいのだと考えている。
伊藤剛から毎度説教しているようなことをいわれて大変不本意なので再度はっきり書いておくが、そもそも具体的な実体を把握しようともせずに1、2冊本を見かけたりした程度で「日本マンガの独自性」とか「海外のコミックスが日本マンガの影響を受けている」とか本来その辺を知らなきゃいえないようなことを断言しまくってきたのは伊藤自身も含めた日本のマンガ評論家や研究者であって(具体例を挙げろといわれればいくらでも挙げられるが、夏目房之介大塚英志岡田斗司夫宮本大人米澤嘉博他、たいていの論者がやってきたことなので例示自体がほとんど無意味である)自分たちが「すでにいってきた」ことなんだから、現在知らないことが問題なのは当たり前である。オレが彼にいったことなど問題ではないのだ。
そもそも私は日本マンガ学会が設立時に「マンガを総合的に研究する学会は世界初だ」などという戯けたことをいっていた事実に対して深い不信感を持っている。私の知る限りでは70年代末にはフランスにコミックス研究組織は存在していたし(しかもこの事実に関してはマンガ学会理事である小野耕世が当時ちゃんとテキストを書いている)、アメリカでは80年代から草の根レベルで立ち上がり、90年代はじめにはアカデミックにオーソライズされた組織が活動をはじめている。韓国でも90年代半ばにはマンガ学会が立ち上がっていた。
つまり、フランスから約20年、アメリカから10年、韓国からも5年は遅い2001年設立の学会を「世界初」と謳っていたわけで、これを恥としないのは厚顔というべきである。その後実際に学会運営をはじめて具体的な海外との交流ができてからはさすがにこのバカな言明はやめたらしいが、いっていた事実は残る。
 
要するに私が日本の研究者や批評家全般(ブログ論壇みたいな在野のものを含む)に対して求めているのは
「どうこういいたいなら(そのいいたいことについて)最低限知るべきことを知ってからいってくれ」
という以上でも以下でもない。
つまり「日本マンガの独自性」なり「優越性」なりを説きたいなら具体的に海外のコミックスなりBDなりマンファなりと比べたうえで語るべきだし、影響関係を検証したいなら影響を与えたものと与えられたものを特定したうえで傍証を提示しないと検証にならない。
仮にこれを過大な要求だというのなら、私はそのようにいう人物の発言を聞く必要性を単に感じない。事実をもとにせず思い込みを語るだけでは仮にいってることが意見としては妥当だったとしても実際にはテキトーにデタラメをいってるのと大差ないからだ。
 
では、私は「自分は知っている」と主張したいのかといえば、それも微妙に違う。なぜなら私は自分がアメリカに限ったとしても「コミックス研究」の動向や実態について包括的に語れるほど知っているとは思っていないからだ。
知識も情報もゼロの人間と比較して多少知っていたからといってそれはイコール語れるほど「知っている」ことにはならない。
具体的にいえば英米のコミックス研究には大雑把にいって美術史系の流れとカルチャラルスタディーズの影響を受けたメディア論などの社会学系の流れがある。これらの研究を研究として把握するのなら本来その背後にある美術史やカルチャラルスタディーズに関する知見が必要とされるが、私自身にはそうした専門研究の訓練や知識が不足している。
特に社会学系の流れに関しては国内のマンガやアニメについては自身の社会学系の知見を根拠に論じてみせる論者がいくたりもいる(例としては上野俊哉金田淳子森川嘉一郎など)にもかかわらず欧米のこうした動きに対しては興味を持つ気配すらないのはどう考えてもおかしな話である(特にカルチャラルスタディーズの日本への紹介者である上野俊哉が『新現実』の座談会にマンガ研究とは縁もゆかりもないジャパノロジストを呼んで「欧米にはマンガ研究は存在しない」といわせていたのに対しては呆れるのを通り越して怒りを感じた)。
そもそも彼らのような職業研究者が私のような在野の人間より欧米の研究動向について知らないのはそれ自体恥とすべきことではないのか。