紙屋高雪への疑問

じつは私が紙屋に対して感じる違和感もほとんどこれと同じ点にある。

 夏目は漫画批評について、「単純な社会反映論」という謂いで社会反映論そのものを否定する身振りをとってきたが(最近はそうでもないが)、ぼくは、漫画批評には社会反映論というモメントがもっと前面に出るべきだと思うし、「私」自身が「社会的諸関係の総体」(マルクス)であるとすれば「ぼくら語り」という方法ももっと豊かにとりいれられるべきだと思う。
 理論の諸契機の一つとして有効であるがゆえに、過去の漫画批評の方法はどれも一度は一世を風靡した。めざすはその理論的方法の諸道具を必要に応じて組み合わせることである。
(「大塚英志大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』」、http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/japanimation.html

個人的には紙屋が提示した夏目や伊藤へのこのような批判にはけっこう同感するし、だから自分の本のあとがきでわざわざ「社会反映論」を標榜してみせた。
これは本来書くつもりのなかったことだが、仕方ないのではっきり書いてしまう。その私の本に対する紙屋の反応がはっきりいって珍妙だったのである。
紙屋はまずなぜか「自著の宣伝ページ」において私の本について以下のように言及している。

 ぼくはこのことに加えて、漫画「で」語る快楽、というものもあるのではないかと思います。つまり、漫画というものが人生観とか政治観とか恋愛観とか労働観とかそういうテーマの表現だととらえて、漫画を道具にして人生や政治や恋愛や労働を語るという快楽です。
(中略)
 そういえば小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』は自ら「本書は……『社会反映論』の立場を意図的にとっている」とのべていますが、小田切の本は膨大な実証の上に成り立っている「研究」であり、ぼくがここで述べている「快楽」とはまた少し方向が違うともいえます。
(「本を出しました『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』」、http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/OTAKUCOMMUNIST.html

この記述に私が首を傾げたのはまず自分の本で「膨大な実証」などした覚えがなかったからだ。私があの本で主にやっているのは欧米の研究や報道、ファンや作家の発言を具体的に提示して、アメリカのコミックス市場や文化を浮かび上がらせることであり「例証」ならそれこそ膨大にやっているが、統計データをとったり、社会調査をしたりという「実証」は皆無ではないがほとんどやっていない(だいたい面倒なので他から引用できればそんなことはあんまりやりたくもない)。
まあ、その辺は言葉に対する感覚の問題もあるから「例証」と「実証」を一緒くたに「実証」と呼んでいるのかとも思うのだが、「膨大な実証の上に成り立っている「研究」」だから自分とはやっていることが違う、というこの言明はなんだか特にケンカの売り買いもしてないのにいきなり相手が逃げ腰になってるみたいで不思議な気はした。
別に紙屋が重視する「漫画「で」語る快楽」を主張するために私の本の話をする必要など1ミリグラムもないのだ。これまで私は紙屋に言及した覚えがないので特に彼の主張に反対したわけでもないし、なんでわざわざ引き合いに出されるのかもわからない。でまあ、訳はわからないけどまともに論じてくれるつもりはないらしいと思っていたら、今度は「現在の手塚治虫観を論じた文章」でなぜか批判的に言及された。

『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』を書いた小田切博は、その著書のなかでもっと鮮明にこの分裂について語っている。

 戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌 「私個人のなかでの手塚は明るい戦後民主主義の体現者的な部分とどこか薄暗いドロドロした情念を描く作品の印象がまったく関連しあわないで別々に存在しているようなところがある」(小田切『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』p.201)

 小田切は、同書のなかで手塚の「史上最大のロボット」(『鉄腕アトム』の1エピソード)をリメイクした浦沢直樹の『PLUTO』が「反戦」のメッセージ色を強めているのではないかと考えこうのべる。

「そこには『反戦』といった戦後民主主義的なテーマをマンガを通して現代的に再生してみせることがいま『手塚マンガ』に対し応えることなのだ、という浦沢の主張が込められているのかもしれないと思う。だが、私はそもそも手塚治虫という作家自身がいまそんな風に『反戦』を描くことを選択するような作家であったのか、という点に対してこそ大きな疑問を持つ」(小田切前掲書p.200)

 『PLUTO』をふくめたいくつかの日本の漫画が、「ひどく短絡的な戦後民主主義的『反戦』メッセージ」を「代入」していることに、小田切は批判的な見解をのべているのだ。

 小田切は、911事件を契機にアメリカのコミックスファンたちが「一夜にしてナショナリストにな」り(小田切前掲書p.150)、「現実」に漫画的「空想」が浸食されていく様子を描いている。
 小田切は「補遺としての終章」の「マンガが守るべきもの」という節で「はっきりいえいば私はマンガとはまず単なる娯楽であり、逃避のためのささやかな消費財であることにこそその本質があると考えている」「同時多発テロとその後の混乱によってひとびとの生活からごく当たり前な『日常』そのものが奪われたとき、けっきょくマンガを読み、楽しむというそのささやかな娯楽としての性格こそが一旦は奪われた『日常』を回復するよすがになってくれたのではないか」(小田切前掲書p.291〜292)と結論づけている。

 この本の流れのなかで、上記のような手塚理解を考えるとき、小田切においては、手塚像は分裂しその戦後民主主義的部分というのは結局漫画表現として批判されるべきであるものだとしているように読める。911事件後にアメリカの漫画家たちが不用意に現実の浸食を許してしまったのと似た形になっているのではないか、と。
(「『手塚治虫傑作選』『平和の探求 手塚治虫の原点』ほか」、http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/sengominsyusyugi-tezuka.html

コレを読んだときに思ったのは伊藤の批判に対する紙屋の反応とまったく同じで「困ったな」というだけのものである。なにしろ私は紙屋がいうような「手塚像は分裂しその戦後民主主義的部分というのは結局漫画表現として批判されるべきであるものだ」などということはまったく書いていない。
私があの本で手塚について触れた部分は3章と7章に限られており、紙屋が私の手塚観の結論として引っ張ってきている終章には手塚のテの字も出てこないうえ、戦後民主主義の話もまったくしていない。だいたい「911」がマンガに与えた影響を論じた本の結論部分で1989年に亡くなっているひとを引き合いに出すわけがないではないか。
では、なぜそうした倒錯したつぎはぎがなされるかといえば、紙屋のしている引用では「つまり、手塚はとにかく「自分という存在」によってマンガすべてを肯定しようとしたのではないか? 自ら率先して戦後民主主義的なヒューマニストとして振舞うことで戦争協力した作家の存在も含めて、マンガのなにもかもを戦争責任から「免罪」し、彼はマンガを「解放」しようとしていたのではなかったか……私の中の分裂した手塚像はこう考えることで不思議と重なっていくような気もするのだ。」と自分の中の「分裂」を「統合」することによって手塚への評価を結論付けた7章での言及の後半部分が丸々読み落とされているからだ。私は手塚の「戦後民主主義的態度」への評価もこの読み落とされた箇所のなかで述べており「戦後民主主義的部分というのは結局漫画表現として批判されるべきである」なんてことを主張した事実はまったくない。浦沢に対する評価に関しても紙屋は私が『二十世紀少年』との関連の中で『PLUTO』の「反戦」を批判している文脈を完全に無視しており、他に誤引用などもあって正直これはフェアな批判とはまったくいえないと思う。
そもそもこの手塚についての文章での言及も文章全体の文意からすれば、私を手塚の分裂を語っている論者の一典型として最初の引用だけひけば紙屋の主張は成立する。なぜわざわざアンフェアな切り貼り引用までして私への批判を挿入しなければならないのか理解しかねる。
ここまで書いてきたように私は社会とマンガの関係を論じるのであれば、議論の文脈に応じて必要な情報や知識があり、そのような必要条件を満たさなければ問題に対する価値判断自体が不可能だと考えている。これに対して紙屋は「社会反映論」が「漫画を道具にして人生や政治や恋愛や労働を語る」ことだというのだが、この一連の反応を見るとひょっとするとこの彼の「社会反映論」観からすると私の考え方は許容しがたいのかもしれないとも思う。
しかし、対象とする問題系に対しなんら調べもせずに自己の快楽原則に任せて語ればそこに社会が反映されるというのでは、記述として「表現」に言及しないだけで紙屋もまた「マンガ」のみから「人生や政治や恋愛や労働」を語ることのできる「普遍的な構造」の存在を夢見ていることになりはしないか?

表現論の限界

で、肝心の伊藤剛紙屋高雪の話だが、私自身は双方に対して「それなりに」批判的である。
まず伊藤剛だが、伊藤個人に対する批判は身も蓋もないヤツは『ユリイカ』でも書いたし、より矮小なレベルでは本人に直接いってるのでここでは繰り返さない。むしろ私がここで指摘したいのは「表現論」と呼ばれる方法論(というより最近の評論一般というべきか)の限界についてである。
ただ、これについては伊藤自身が東浩紀との対談でかなりそのまんまなことをいっているのでまずそれを引用する。

伊藤 もちろん、「社会反映論」がいけないと言っているのではなくって。マンガ批評という文脈で問題にしたいのは「社会反映論対表現論」という二項対立に陥ってしまうのがまずいということです。これは夏目(房之介)さんの登場以来できた図式とも言えるんですが、つまり九二年の『手塚治虫はどこにいる』で、それまでのマンガ評論がマンガに反映された社会の諸問題を読み解くということをやっていたのに対し、マンガ自体に内在する表現の法則をいったん取り出すという作業を経由しないと、社会を論じるにしても間違いを冒してしまうのではないか、ということを言い、「表現論」という言葉を使い始めた。さらに夏目さん自身が、九七年の『マンガと「戦争」』という本で、戦後の日本マンガと戦争という問題系について考察しているんだけれども。ここで「表現論という枠組みではうまくいかなかった」といってしまっている。一方、夏目さん以降、「表現論」はマンガ言説における「専門の知」という位置をいちおう占めるようになった。それと並行して「表現論」は社会の現実から離れて表現のなかに沈潜していく態度であるととらえられがちになったんですね。そうした「表現論」への反発として、紙屋さんのような素朴反映論が歓迎されている部分はあると思うんですよ。
(「マンガの/と批評はどうあるべきか?」、東浩紀伊藤剛、『ユリイカ』2008年6月号、青土社刊、2008年、133P)

ここで伊藤が指摘するように「表現論」とはもともと「表現の法則をいったん取り出すという作業」のための方法論に対して与えられた呼称である。したがって夏目が『マンガと「戦争」』で直面した「表現論的な枠組み」の限界そのものは必然的なものだと考えるべきである。「戦後の日本マンガと戦争という問題系」を考察するなら「マンガ」の表現を分析するための方法や知識のみでは不十分であり、「戦後」や「戦争」を語るための知識(情報)や方法論がそれとは別に必要になる、ということだ。
私が「表現論」というよりおたく論とか動物化決断主義といった現在のサブカル批評全般の限界として想定しているのもこの夏目の直面した限界と同質なものである。つまり、マンガやアニメといったサブカルチャーの消費「のみ」を通して取得可能な知見は当然限定されており、いっぽうで「語ろうとする問題系」によってそれに対する価値判断のために必要条件として要求される知識は当然異なる。
表現規制問題に対して一定の価値判断をするためには社会的な規制の歴史や著作権法などに関する知識が必要だし、先日のジョジョの問題では多くのひとがムハンマド風刺画事件を引き合いに出していたが正直いってその多くはあの事件そのものがどういう事件だったのかを自分なりに把握してモノをいっているのかが疑問だった(finalventさんですら「欧米が起こした」と書いていたが、あの事件に限ってはアメリカに当事者性はほとんどない)。
東浩紀笠井潔との往復書簡集『動物化する世界の中で』において「日本のサブカルチャーには、それについて考えるだけでいつのまにか現代思想の理解までできてしまうような、そういう普遍的な構造が隠されているのだ」と書いていたが、これはじつは一種の言葉の詐術だ。東自身のどの著作を読んでも彼は「サブカルチャーについてだけ」考えてなどおらず、実際には自分が語ろうとする問題系ごとに必要だと思われる情報を適宜参照精査し、取捨選択するプロセスを経由して論考を進めている。「それについて考えるだけで」いつのまにかなにか他の物事が理解できてしまう「普遍的な構造」はそのような作業に先行して存在するものではありえない。東がサブカルチャー現代思想に共通する構造を見出し得たのは彼がその両方を知っていたからこそであり、この言明においてはあきらかにその点の因果関係が逆転している。
私が表現論を立場としてとらないのは一義的には主に対象としてきた海外マンガ(アメリカンコミックス)のまともな翻訳市場も存在しない国で表現レベルの比較を論じても受けいれてくれるマーケットも発言する意味もあるとは思えないからだが(だから伊藤さんや夏目さん相手に実物を見せつつ「ブライアン・ベンディスとよしながふみのコマ割りは似ている」とか「メビウスは線を引く官能性に引きずられるタイプのアーティストでシュイッテンは画面の構成から考えるタイプだと思う」みたいな話を「個人的に」することはある)、二義的な理由として「表現論」が「マンガ言説における「専門の知」」として認知されていることによって当然前提されなければならないこのような表現論固有の限界が隠蔽され、対象とする問題系の要求する必要条件を無視して「マンガ」と「普遍的な構造」を短絡的に結び付ける傾向が挙げられる。
伊藤は社会的な影響と作家や作品を無造作に結びつけるタイプの批評を「素朴な社会反映論」として批判的に語るが、逆の見方をすればこれはマンガ「のみ」から「普遍的な構造」を見出しうるのだという東が提示した詐術的な言明を無自覚に前提したマンガ「表現」を万能だと看做す感覚の産物だともいえる。
今回のユリイカに寄稿した拙文「「クールジャパン」と「MANGA」」は日本マンガ「ではないもの」との具体的な比較がなされずに主張される「日本マンガの固有性」を批判したものだが、表現レベルでも「マンガ」のみからでは「固有性」という「普遍的な構造」などは本来抽出しようがないはずなのである。

先行する言説状況の参照

個人的な感想を述べれば、今回のユリイカの特集に感じる不満もこの点にある。「マンガ批評の新展開」と銘打ちながら、そこにはマンガ批評言説の過去と現在の状況が明示的に示された全体の見取り図に当るテキストがないのである(この点は前回の特集「マンガ批評の最前線」に対しても同様の不満を持っている)。
好意的に解釈すれば巻頭鼎談における宮本大人のみが寄稿者の中ではこの点の必要性について自覚的であったように思える。おそらく彼は「それが巻頭に置かれること」をじゅうぶん意識して「前回の特集からの状況の変化」というトピックを語ったはずだからである。ただ、そこで語られた状況の整理があまりにもずさんだったというだけで(前回特集前に出版された中野晴行『マンガ産業論 』大塚英志大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか 』を「以後」の話として持ち出している辺りで本気で「宮本さんどうしたの?」と思った)、彼自身にはその種の状況論の必要性の意識はあったはずである。
この点でむしろ問題だと思うのは言説状況全般の傾向を「らしい」の一言で片付けている杉田の態度のほうだろう。他にも具体的な批判対象を明示せず「作品に優劣をつけるマンガ評論」の存在を批判している吉田アミの原稿など、過去蓄積されてきたマンガ批評言説の歴史を検証しないまま思い込みを語っている発言に対しては首を傾げざるを得ない。私は吉田の大島弓子須藤真澄を猫を介してつないで見る観点には感銘を受けたし、杉田の東や伊藤への批判は同意すらするが、書かれている内容と無関係にそういう適当なことをいわれては単に困るのである。
そもそも大雑把なマンガ批評言説史の流れを追うだけなら、先のエントリでも書いたように夏目房之介『マンガ学への挑戦―進化する批評地図』NTT出版刊、2004年)というものすごく便利なアンチョコ本がすでにあり、ネット上にも瓜生吉則「<マンガ論>の系譜学」というすぐれたテキストが存在する。それと少なくともこのふたつを読んでから読まないといろいろ問題があるとは思うが、マンガ批評がなにを「問題」として展開してきたかを論じた小山昌宏『戦後「日本マンガ」論争史 』現代書館、2007年)のような本もすでにある。「マンガ批評とは〜」といったことを語りたいのなら少なくともこの三つくらいは参照しないと単に無意味である。
これはまったく自慢ではないが、じつは私は『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』を「これはマンガ批評として書かざるを得ない」と決めるまでたいしてマンガ批評を読んでいなかった。書くのに必要だと思ったから2002年辺りから体系的にこの分野のテキストを読んだのであって、それまでは夏目さんの『手塚治虫はどこにいる』すら読んでいなかったのだ。
ある対象について価値判断を表明したいのであれば、そのための「必要条件」となる知識は必ず存在するのであり、その知識を取得する労を厭うなら、その人物はその問題について言及する資格が単にない。
大学生の頃に読書系サークルの読書会に「本を読まずに」やってきて他人の感想や意見だけ聞いて「その作者の意図はこういうものに違いない」と憶測のみで演説始めたヤツがいて呆れ返ったことがあるのだが、「必要条件」を満たさないならどんな言説も(いってることが正しかろうが間違ってようが)実質的にはこれと大差がない。

「マンガ批評の新展開」のアングル

私見では件の『ユリイカ』「マンガ批評の新展開」で「表現論vs社会反映論」の図式が出来上がった背景にはこれと前後してネット上でおこなわれた『思想地図』1号掲載の伊藤論文「マンガのグローバリゼーション」(とそれを遡ること2年半前のユリイカの前マンガ批評特集)を巡る伊藤剛紙屋高雪の論争(のようなもの)がある。
以下に時系列順にその経緯を示す。
紙屋研究所での伊藤『テヅカ・イズ・デッド』
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』
大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ふたたび
伊藤による思想地図論文と紙屋への言及
『思想地図』vol.1
伊藤剛「マンガのグローバリゼーション」
「思想地図」に論文を書きました。
紙屋の返答? と伊藤の反応
「思想地図」創刊記念シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」を読んで
そりゃつれないよ、紙屋高雪さん
ユリイカと困惑する紙屋
『ユリイカ』「マンガ批評の新展開」
東浩紀伊藤剛「マンガの/と批評はどうあるべきか?」
「ユリイカ」東浩紀×伊藤剛「マンガの/と批評はどうあるべきか」
出てからの反応はともかく、今回の特集寄稿者のうち杉田俊介はどうだか知らないが、実際にこの件を話題にしている伊藤・東はもちろん伊藤に近い宮本大人もこの一連の経緯を事前に知っていたと思われる……というかオレも知っていた(どーでもいい話なので詳述しないが、わざわざこんなエントリ書いてるのもその辺が理由である)。つまり、特集刊行前に示された伊藤と紙屋の対立(のようなもの)が事前に漠としたかたちで関係者に共有されていたために「表現論」と「反映論」の対立が気分として前提され、「結果的に」特集全体に対立の構図をつくりあげたのだと思われるのだ。
つまり、これは必ずしも意図的にそうなったものではない。だからこそ先に「マンガ批評における表現論と社会反映論」というエントリで指摘したような間抜けなことにもなっているわけで、事象自体は「まぬけな感じだなあ」とでも思っていれば済む。
先にも述べたように問題はそのような構図を内包する言説の状況がほとんど検証されずに対立だけが言及されている点にある。

マジャール語対策

よっしゃ、『webforditas.hu』の「Hungarian-English translation」『MTA SZTAKI』の「Hungarian-English Online Dictionary」の組み合わせで短い文章なら「なんとか意味わかる」トコまでいけそう。しかし、各種翻訳サービスの整備のされ方見ると、この言葉ポーランド語やチェコ語よりマイナーなんだな。
やり方は簡単、読みたい部分をコピーしてまず「Hungarian-English translation」(500文字までしかできない)でラフな英文にしてもらい、翻訳できなかった部分をひたすら「Hungarian-English Online Dictionary」で引く。この際マジャール語は膠着語なので語尾変化とかあってなかなか正確にマッチはしてくれないのだが、この辞書には綴りの近い単語を表示してくれる機能があるのでそれを活用し、それでも出ない場合は語尾を切り飛ばして引き直したりしていけば、そのうち文脈からなんとなく文意が取れてくる。
試しにこのやり方で公式ブログの07年5月29日のエントリ「Underground Divas felvéte」を意訳してみる。

どんなに信じがたいことでもいつかはそれが本当だと理解できるときがくる。私たちの誰もが自分以外の何かに包み込まれるような瞬間を経験するように本当のシンガーは美の女神たちの囁きを聞くことがある。傲慢を承知でいわせてもらえば、彼女たちは女神そのものだ……さあ、その女神たちのリストを眺めてみよう。Sena、彼女は最初のガーナ系ハンガリー人のヒップホップシンガーだ。Kutzora EdinaはYonderboi orchestraのメンバーですでに以前のアルバムでぼくらと組んでいい仕事をしてくれた。Judie Jayはいくつものエレクトロニックミュージックのプロジェクトに関わってきた、代表的なプロジェクトのひとつがMantrapornoigだ。Péterfy Boriは劇団Krétakör Színtársulatの素晴らしい女優であり、最近解散したバンドAmorf Ördögökの創立メンバーのひとりであり、ボーカリストだった。Hódosi Enikőはいわずと知れたNeoのメンバーであり、Németh JuciはAnima Sound Systemの女性シンガーだ。そう、彼女たちこそアンダーグラウンドのディーヴァなのだ!
(「Underground Divas felvéte」、http://zagar.freeblog.hu/archives/2007/05/29/Underground_Divas_felvetel/

意味わかんない部分(固有の比喩表現と思われるもの)はすっ飛ばしたりしたが、読めすらしない言語の意訳としては割りとそれっぽいトコまでいけたんではないかと思う。

ZAGAR「Wings of Love」


YouTubeでいろいろ音源を検索していてハンガリーのエレクトロニックミュージックのシーンが非常に熱いことをはじめて知った。おもしろそうだと思っていろいろ情報を検索したのだが、この辺に関しては日本語の情報が全然ない。頭にきたのでこのシーンとそれを牽引するバンドたちについて調べたことを紹介していきたい(ああ、マジャール語が読めるようになりたい)。
まず最初に衝撃を受けたのがこのZAGARの「Wings of Love」。
トラッドミュージック風のバイオリンにサンプリングとスクラッチが重なる印象的なオープニングから思いもよらない意外な展開をしていくこの曲では、トラッドでもテクノでもジャズでもロックでもない、これまでに聞いたことのないような新しい音楽が鳴っている。
これはちょっとスゴイなと思って説明を見たのだが、どうやらこのバンドはハンガリーのインディーバンドで、この曲のゲストボーカル「The Underground Divas(アンダーグラウンドの歌姫たち)」はそれぞれハンガリーのインディー/アンダーグラウンドシーンでは著名な女性アーティストであるらしい。
個人的にこういうスターシステム企画は大好きなので、歌姫たちの素性をそれぞれ調べてみたのだが、行き当たるバンド行き当たるバンド全部がエラくカッコいい。それでまあ、このシーンはひょっとしてものすごくおもしろいんじゃないかと思って本式に調べはじめたのだが、コレが本当におもしろかった。
このZAGARというバンド、英語版のWikipediaによれば

Žagar (or Zagar)はハンガリーのエレクトロニックミュージックシーンを牽引するグループである。
彼らのサウンドは現代のエレクトロニックミュージック、ジャズ、インディーロックなどをベースにDJ Bootsieによる実験的なスクラッチを加えたものである。そのサウンドは結果として重いビートと60年代のサイケデリックミュージック風の雰囲気と音色を備えることになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/%C5%BDagar

という存在だという。単なる偶然だが、シーンのトップバンドのひとつを引き当てたわけでカッコいいのも道理だったわけだ。メンバーは
Balázs Zságer aka Zagar > fender rhodes, keys, programming
Andor Kovács > guitar, bass
DJ Bootsie > scratches
Tibor Lázár > drums
の四人、名前をどう発音するのかとか聞かれてもわからないので聞かないように。
以下に彼らの公式ページからバンドプロフィールを引用する。

このバンドのストーリーは2001年にはじまる。当時現在のメンバーのうち3人(Zságer, Kovács, DJ Bootsie)がYonderboi Quintet(訳注:16歳でデビューした天才少年アーティスト「Yonderboi」のユニット)に参加しアルバム「Shallow and Profound」ツアーをおこなっていた。このツアー後に彼ら三人はQuintetを離れ独立したバンドとしてリハーサルをはじめる。まず彼らはPulzus名義で活動を開始、楽曲は彼らがリハーサルでつくりあげた素材を事前にZságerがシンセで作曲していた曲を掛け合わせたもので、そこから彼らはこの新しいバンド特有の音をつくりあげていった。
2002年夏には彼らはZagar名義でハンガリーや他の国のフェスティバルに参加、その後デビューアルバム『Local Broadcast』を制作した。このアルバムはストリングカルテットをフィーチャーしている他、多数のゲストアーティストが参加、そのうちのひとり、ボーカリストのGyörgy Ligeti(The Puzzle)はかつて彼らとThe Endというバンドを組んでいた友人である。
『Local Broadcast』は2002年、ハンガリーではUCMG/Ugar records、オーストリアではUniversal Jazzから発売され、国内外のプロフェッショナル、コレクターから熱烈に歓迎された。このアルバムは音楽誌『wan2』の企画、ハンガリーオールタイムベストアルバム50選に選ばれている。結成以来このバンドはハンガリーのみに止まらず、オーストリア、ドイツ、オランダ、イタリア、スロヴェキア、チェコ、ロシアでライブをおこなっている。
http://www.zagarmusic.com/biografia_en.php

これまで発表された主要なアルバムはデビュー作『Local Broadcast』(2002年)、映画のサントラ『Szezon. Eastern Sugar』(2004年)、そして昨年発表されたセカンドアルバム『Cannot Walk Fly Instead』(2007年)。とりあえず聞ける曲はだいたい聞いたが、おそろしく音楽性の幅の広いバンドで一曲ごとにほとんど別のバンドのようにスタイルが違う。その癖そこには共通する芯が一本通っており、どの曲も聞いたことのない独自の音楽になっている。
たとえば映画『Szezon. Eastern Sugar』のサウンドトラックでGyörgy Ligetiをボーカルに迎えた「Eastern sugar」などは完全なマージービートのサイケデリックナンバー(しかしどこかニセモノっぽい)だし、ファースト収録の「Taste of snow」アンビエントなハウスだと思って聞いていると途中からなんだかおかしなことになる。
この「Wings of Love」は昨年発売された『Cannot Walk Fly Instead』に収録されたナンバーで当然のようにシングルカットされ、ハンガリーのチャートではかなりヒットしているようだ(具体的なところまでは調べがついていない)。
なお、Divaたちの正体は、ビデオ左から
Juci Nemethハンガリーでこの手の音楽のシーンを切り開いたバンド「Anima Sound System」の元メンバーで現在リーダーバンド「nemjuci」を主催する女性アーティスト。
Eniko Hodosi:これもシーンのトップバンドのひとつ「Neo」の女性ボーカリスト
Sena:ガーナ出身のヒップホップアーティスト。
Judie Jay:ジャズ、ラウンジ系のソロアルバムが二枚ある女性アーティストで現在ダブ、ヒップホップ系のバンド「BEAT DIS」にボーカリストとして参加。
Peterfy Bori:女優でトラッド/フォーク系のバンド「Amorf Ordogok」にボーカリストして参加していた女性アーティスト、現在リーダーバンド「Peterfy Bori & Love Band」を主催。
Edina Kutzora:Yonderboiの現在のライブユニットYONDERBOI and the Kings Of Oblivionにボーカリストとして参加しているジャズ系の女性シンガー。
関連リンク:
Zagar My Space
http://profile.myspace.com/zagar
Zagar Official Site
http://www.zagarmusic.com/
Zagar Official Blog
http://zagar.freeblog.hu/
マジャール語、読めん……